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何も持たない自由。

ようやくわかってきたなぁって思う。どんなにイヤなことも嫌いなことも、とりあえずは素直に受け止めるということを。

今までの私は、そういうものに対して、それを言葉にしてもしなくても、心では反発したり、勝手に変に思い込んだりして・・・それで心は苦しくて勝手に自己嫌悪に陥って、沈んだり、どうしようもなく落ちこんだり。

そんな日々が続いてゆくと、なんでも自分が悪く思えて、そして、誰かを恨むような気持ちになって。さすがにこれじゃダメだと思った。

ある日、朝起きた時に、何かとても気まぐれな気持ちで”まぁ、いいや”って思った。これは私が、とても上手に気持ちを切り替えたというよりも、とても単純に、”もうどうでもいいや”というあきらめに近い気持ちなのだと思う。

本当は、何事もあきらめちゃいけないんだろう。本当は、この人生は、努力し続けなきゃいけないんだろう。小さい頃から学校で、いつもそんなふうに教わった。いつもそれが正しいのだと。

でも、自分の中にある、常に”しなければならない”という大きなつっかい棒を、大人じゃない私の根っこの感情で、足でカランコロンと蹴飛ばして、ガラガラってその扉を開けたとき、なんか解放されたような気持ちになった。そこにはまるで、新しい朝と大きな海と小さくそよぐ風があって、言葉にならないこんな気持ちが、今の私には必要だと思った。

それはたぶん、今まで私が考えていた自由とは違う。それはきっと、海に漂う誰かが捨てた空きビンのような・・・捨てられたんだけど、結果的に、とても気持ちがいいような、とても自由なような・・・うまく言えないけど、例えるならそんなものなのだろう。

そう思ったとき・・・私の中で変化が起きた。普段なら、いつもはイヤなあの人の言葉を、”あぁ、そうなんだ”と思えるようになった。この人もきっと苦しいんだ。辛いんだと。つまり、言葉を自分のフィルターを通すことなく、直接、受け止めることで、その感情も伝わるようになったのだ。

いつもならその言葉を、ラケットでボールを打つように、常に跳ね返したり、痛くないように紙くずと一緒に丸めたりしていた。でも、驚いたことに、そのとき私は素手で受け止めていた。やっぱりとても痛かったけど、でも、案外、それほどでもなかった。その人の伝えたいことは、とてもまっすぐな言葉だったことを、そのとき、はじめて思い知ったのだった。

そうか・・・私は、何か自分の妨げになるものを、その道具や術を使って跳ね返すことを、”自由”と思いこんでいる節があった。でも、本来の自由とは、(ここでは心の、という意味になるけど)つまり、道具を持たないありのままの、生まれたままの自分でいることを言うのじゃないだろうか。

何もないから、すべて自分のこの手で受け止めなきゃならない。それって、とても不器用で非効率的で、こんな世の中じゃ傷つくだけだ。でも、それで感じる本当の痛みは、次の強い自分を作ってくれる。人はいつしか新しい道具を使うその度に、そういうものを忘れてしまったのじゃないのかと。

思うままにつらつらと書いているので、伝えたいことが、うまく言えない。たぶん心を言葉で伝えるには、今の私ではまだ未熟過ぎて、何ものにもならないのだろう。

でも、それでも・・・今の私は少なくとも、何も持たない自由を感じる。海を漂う無力さと、果てしない解放を感じている。いつ、またつっかい棒が、この心を閉め切ったにしても、また、それを蹴り倒す用意は、私にはちゃんとある。

それだけでもこの私にとっては、大きな進歩だと言えるんだ。

あの人の言葉が、また、私の胸に飛び込んできた。また、それはまっすぐだった。素手ではヒリヒリと痛いけれど、もう、私はこの痛みを覚えた。なんてことはない。勝手に私は強くなるのだ。そうすると、その人の、迷子になった心の不安が、少しだけ分かるような気がして・・・。

そんなふうに心はどこか、不思議にも優しくなってゆく。こんな私がいいのだと。

この果てない海の先には何があるんだろう。
私はもっと、私を生きよう。

何も持たない”自由”を掲げて。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一