Re: それでも彼は歌っていた。
もう、遠い昔のこと。
でも彼のメロディは、まだ、心に流れている。
教えてくれた大切なことも。
・・・・
駅のホームで電車を待っていると、少し大きな声で歌を歌いながらヘッドホンをしているひとりの若者がいた。ひどく音痴な彼の歌声。ストリートミュージシャンでもなさそうだ。レイ・チャールズのように頭を大きく動かしていた。
静かな駅のホームの中、聞こえてくるのは彼のひどい歌声だけ。その歌に、周りの誰もが迷惑なのに、誰も素知らぬ顔のままで、心にストレスだけ溜めていた。
誰一人、何も言わない。
私もその内のひとりだった。
女子高生二人組が、彼の前をクスクス笑いながら通りすぎた。
「またあの人だ、この前も歌ってたわよ。変なヒトよね」
そんなセリフひとつだけ残して。
彼はヘッドホンをしていたから、そんな彼女たちのあざ笑う声は、聞こえなかっただろうけれど、笑われていることは、彼なりに気づいていたはずだ。
それでも彼は歌っていた。何度も何度も歌っていた。まるでそれが彼にとって生きる術であるかのように。
「僕は君が好きだから・・・」
聞いてて恥ずかしくなるような歌詞。
それでも空を見上げるようにして、彼はひとり歌っていた。誰の目も気にすることなく、生きたいままに生きている。あれだけ自分の世界だけで生きることが出来るなんて・・・。
不思議とうらやましく思う私がいた。
落ち着きのないその動き。たぶん、心がほんの少しだけ、人と違っているのだろう。そう思いながらも、私はふと不安になった。
心が少し違っているのは、本当に彼のほうなのだろうかと。
電車の中、彼は、もう歌わなかった。
その目はまっすぐに、この季節を見つめていた。
最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一