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人生の勝利者は要らない。

ある日の公休日、ほとんど一日、本を読んでいた。昼間はずっと、気ままにウトウト眠ったり、ウトウトと本を読んだりの繰り返し。日向ぼっこをしているネコの気持ちが、心からわかるようなそんな心地よさの中、時計のカチカチという音だけが、妙に私の心に響いて、ちょっと不安になったりしていた。

私は今、本当にこんなこと、してていいのかなぁ?なんて。

やれやれ、すっかり時間に縛られたこの体。休みの日でもこれじゃ、心が壊れてしまいそうだ。こんな時は誤魔化すわけじゃないけど、同じ音なら音楽がいい。

久しぶりにお気に入りのデビッド・フォスターの曲を聞いた。そのピアノのメロディは、まるで天使が奏でているみたいだ。

音楽は不思議。

聞いているだけで、私の目の前に、きれいな風景やきらめく風や季節のあざやかな花たちが、一面に広がってゆく。確かに私は、今、この人生において、やるべきことがあるのかもしれない。それが何かはわからないけど、でも、こんなふうに、美しい音楽に優しい気持ちになれる心を持ちつづけることのほうが、この短い人生の中で、はるかに価値があるような気がする。

すっかり何かにせかされて生きているこの日常。いつしか気づけば、とうの昔に年功序列や終身雇用制度がほぼ崩壊してしまった。世の中が能力主義に移行して、随分と時が流れていった。それがいいか悪いかは別にして、私たちの心には、確実に余裕がなくなってしまった。

能力主義の言葉の裏には、私はどこか”勝ち”とか”負け”という見えない圧力にまるで脅迫されているみたいでとても居心地が悪くなる。はるか昔の日本映画のキャッチコピーで、確かこんなのがあったと思う。

「狼は生きろ。ブタは死ね」

まるでそんなふうに宣告されているみたい。私の単なる被害妄想ならいいのだけど、そう思ってしまうのはたぶん、すでに私が何かに負けているからなのだろう。

人生の敗北者。

たとえ誰かにそう言われたって、別にいいじゃないか。と私は思う。勝つということ、負けるということ、いったい誰が決めると言うのか?

誰でもない。

それを決めるのは、本当は自分自身のこの心だ。私の人生は私の人生であり、誰かが決めた人生じゃない。”狼は生きろ”と言っていたけど、今ではどこで生きているというのか?

私はむしろ、ブタのようにありたいとこの頃、思うようになった。何も急ぐこともなく、ただ、のんびりと心気ままに生きて行く。守るべきものを守りながら。人生はきっと、それでいいのだと思う。でも、それは何かをあきらめたという意味じゃない。

短い命だからと言って、桜が咲くことを、決してやめたりしないように、人はいつか必ずそんなふうに、輝けるときが来るんだ。

私はこの人生において、勝利者になりたいとは思わない。(まぁ、それ以前になれはしないだろうけど。)勝利者はただ、敗北者がいるからその存在が成り立っているに過ぎないだけで、この人生に、敗北者はきっとどこにも存在しない。

だから、勝利者は誰でもないんだ。そう思うと、不思議に私はこうしてココからまた、歩いて行けそうな気がする。

人生は、追い抜くでも、残されるでもない。
きっと、共に歩むことだ。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一