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ひとりで生きてゆければ。

ひとはひとりでは生きてはゆけない。
そんな証拠が、どこにあるというのだろうか?

時々、私はそんなことを思う。私はいつも、ひとりが好きだ。私には私だけのすべてがあって、そのすべての中で私はこの私を生きている。それが正しいこととは思わないにしても、この私はそう思っている。

たとえばそこに、まったく異なったものが入り込もうとすると、私のすべてがどこか少しずつ、壊れてゆくような気がする。だから私はそれに対して、どこか拒否反応を起こしてしまう。まるでそれは、私たちの体が、別の異物を拒むように、私の心もそれと同じように、出来ているのかもしれない。

でも、それが間違った考えであることは、十分すぎるほどわかっている。人はひとりでは生きてゆくには苦しみが伴う。誰かと係わりを持たなければ、この人生は生きにくい。それに誰かに助けられて、この人生が成り立っていることも、ひとつの大きな事実だ。

ならばどうして、私はひとりを好むのだろうか?

・・・今、私は意識もせずに、疑問形で問いかけたけど、なんて愚かな問いかけなんだろう。別に誰かにその答えを、求めているわけじゃない。そんなひとりよがりな答えを、誰が答えてくれるというのか。それじゃ私は一体何に・・・そう考えたとき、私はすでに心に出来た大きな壁を、知らずに固めているのかも知れない。

私は幼い頃からまわりの人たちと違っていた。同じ歳の友達とは、なぜか私は遊ばなかった。(いや、遊べなかった、と言うほうが正しいか。)

そのときは何も不思議には思わなかったけれど、小学生の頃、私はいつもひとりか、または、近所に住んでいる私よりも年下の子とばかり遊んでいた。時々、親から注意を受けた。「年下の子とじゃなくて、同じ歳の子と遊びなさい」と。でも、私はその言葉の意味を理解できなかった。今、思うに、私は同じ歳の子とでは、私の心は追いつけなかった。それくらい、私の心は幼すぎたのだ。

学生の頃、先生に少し注意されたくらいで、私はいとも簡単に泣いた。それが面白かったのか、担任の先生は、私をことあるごとにクラスの笑いものにした。「こいつ、また、泣いてるぞぉー」と。

別にそれが悔しかったわけじゃない。これは私と似たような、心の人にはわかるのかもしれないけれど、泣くほどでもないことに、泣いているこの自分が悔しくて、私は私を泣いているのだ。だから先生が面白がっても、私はそんなこと、どうでもよかった。でも、私にはわからない。それでもなぜ、泣くのだろうかと。

大学を途中でやめたのも、人との係わりが、結局、苦しくなってしまったからだ。友達は、いたけれど、でも、その友達に助けを求めようとはしなかった。この頃から、私は私の”ひとり”に気付き始めていた。理由はわからない。けれども心はその”ひとり”を望んでいる。だからひとりを望む私は、私のことで、誰か他人を求めたくなかった。

この頃から、私は私の心に大きな壁を作り上げたのかもしれない。

今も時々、心の中で「こいつ、また、泣いてるぞぉー」と笑うような声が聞こえてくる。大人になった今の私は、その大人のずるさ加減で、もう、涙は流さなくなった。

でも、心の中では今も、小さな私が泣いている。あの頃に残されたまま、泣くほどでもないことに、泣いてる自分が悔しくて、今も私は泣いている。

今、やっとわかったような気がする。
そうか、私はひとりが好きなのではなくて、ひとり残されてしまうのが、たぶん怖いのだ。

ひとはひとりでは生きてはゆけない。
知らないうちに泣きながら、何かを求めてしまう。

それは心にこぼれる涙が、ひとつの証拠なのかもしれない。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一