見出し画像

この世で美しい字。

昔、高校の頃、現国の先生が、こんな話をしてくれた。

突然、黒板に「愛」っていう字を大きく書いて僕たちにこう聞いたんだ。

「お前たちはこの字を見てどう思うか?」

どう思うって言われても、どうも答えようがない。「愛」は愛だ。でも、いつも笑わせてくれる先生のことだから、なにか冗談でくさいセリフでも言うのかな?と思っていたら、まったく僕らの想像を超えた話をし始めたのだった。

「”愛”っていう字は、とても美しいと思わないか君たち!いや、実際に、”愛”っていう字がこの世に生まれた文字の中で一番美しい字なんだ。見ろ、心という字や、それにこのきれいに伸びた細い女性の足のような線のはね具合。こんなにも美しい字がほかにあるだろうか?」

あるだろうか?と聞かれても、とても困るわけで。でも、先生がそういうと
なんだか本当に「愛」という字がとても美しいものに見えてくるから不思議だ。そして先生は、それからの僕たちの心に多大な影響を与えるこんな話をしたのだ。

「日本の古い文学において密かにこんな話がある。”愛”いう字は、実は試すための字だったのだと。よく見てごらん、簡単なようで”愛”という字を書くことはものすごく難しい。似せただけの字なら誰にでも書けるかもしれない。しかし、この本来の美しい”愛”という字を、そのまま美しく書ける人は、本当の愛を知っている証拠なのだと。だから”愛”という字はとても美しくあり、そしてそれを書かせることによって、愛すべき人かどうかを試すことが出来るのだと」

衝撃的だった。この話を聴いた瞬間、僕らみんな、”愛”という字が、輝くビーナスか何かしか見えなくなっていた。

「そうか、そうだったのか!」とみんな心でガッツポーズを決めていたのだと思う。なんせ、高校1年生といったら、思春期真っ盛りだ。”恋”という言葉でさえも、なんだかよくわからず持て余しているというのに”愛”という言葉にいたっては、それは神聖なものでしかないわけで、愛を知るには、愛という字を美しく書ければいいんだ!というひとつのマニュアル的な法則に、僕たちはのめりこんでいった。

実際に、僕のノートの余白には、気付けば”愛”という落書きが増えていった。借りた友達のノートにも、消しゴムで消されてはいたけれど、しっかりと”愛”という字がいくつも書かれた形跡を見つけていた。なんてピュアな僕らだったのだろうかと思う。

でも、その落書きは、すべて無意味なものだったと
やがて僕らは知ることになる。

部活の先輩が僕たちにこう言った。

「お前らな、ありゃあ、みんな嘘だ。現国のセンコーはな、適当なこと言って遊んでるだけだぞ。ていうか、まさか、お前ら信じてたのか?」

僕らは情けなくも、ぎこちない笑顔で
ごまかすしかなかった。

青春時代の恋や愛は、こんなふうに、いつもあっけなく終わってゆく。それは一所懸命なほど、とても滑稽なものになる。でも、僕らにとっては、そのあっけなくも滑稽なひとときが、僕らがそれでも受け入れたひとつの真実だったように思う。

その後も現国の先生は相変わらず適当なことを言っては、僕らをずっと楽しませてくれた。でも、その適当な中でも、僕らにちゃんと大切なことは、心に伝えてくれていたように思う。

その証拠に今もこうしていい想い出として
私の心に残っているのだから。

”愛”という字を、私はしみじみと眺めてみる。
高校の頃の一途な私に、やはり私はこう言うだろう。

それでも愛はこの世で一番美しい字だと
今の私も思っていると。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一