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贅沢な時間。

通勤電車の中で、私はよく本を読んでいる。

私が通勤で使っているローカル線は、それほど人も混雑しておらず、とても快適でゆったりとした空間だ。窓も少し曇るような、ほどよく暖房の効いた座席でゆっくりと読書ができる環境は、本当に幸せなことだと思う。

それは私のちょっとした贅沢な時間だ。

通勤でよく読んでいる本は、短いエッセイ(または短編小説)が多い。いつだったか、長編小説を読んでた時期もあったけれど、長編小説だと、話のキリも悪いままに、中途半端な気持ちで駅を降りてしまうので、たちまち欲求不満になる。つまりプチストレスがたまるのだ。

贅沢な時間が、そんなことではもったいない。というわけで、今ではすっかり短編小説か、エッセイに落ち着いたという次第だ。

ある日のこと、いつものごとく贅沢な時間を満喫していたときのこと。私はいつも、ひとつ前の駅で、(つい、乗り越さないために)本を閉じるように癖付けている。

いつものように本を閉じようと思ったとき、困った事態が起きたのだった。いつも使っている”しおり”が、どこを探しても見つからない。カバンの底やページの間を、ぱらぱらと探してみてもどこにもない。さっきまであったのに、どこか落としてしまったか?

さて、どうしよう?とりあえず何か”しおり”に出来るものはないかとゴソゴソと探していたらカバンの内ポケットに、ちょうどいい大きさの、ちょっとした厚紙が見つかった。

あぁ、よかったと思ってページの間に挟むと、紙になにやら書いてある。ん?とよく見てみる。それは人の名前だった。つまり、仕入先の業者の方の名刺だったのだ。

まぁ、いっか。と一瞬思ったけれども、やはり気が引けてしまった。たかが紙でも、人の名前を本の間に挟むというのは、まるでその人を苦しめるようで、なんだかとても心苦しい。

さて、どうしよう?何でもいいから小さな紙切れがないかと思ったが、案外これがないものだ。仕方ない。何か紙を小さく破ろうと思っても、どれも必要な書類ばかり。(破りたくても破れない今日やるべき私の仕事の書類だ)

仕方ない、本の端を折って目印にしようと思った。(いわゆるドッグイヤーってやつだ。)でも、よく考えたら、たまたま読んでたその本は図書館の本だった。もちろん、そんなことをしたら絶対ダメだ。借りる人の迷惑になる。

そんな具合で、発展的解決方法も何も見つからないままに、電車は駅に到着しようとしていた。あまり時間もない。

”そうだ、ページを覚えてしまおう”

しおりの意味すら無視をして、私はそんなバカなことを考えた。とにかく、ページ数を覚えておく。見たら56ページ。56ページ。56ページとつぶやく。それだけでは心もとない。見出しのタイトルも覚えておく。「修羅場でいいじゃんか」。全然よくないがとりあえず覚える。「修羅場でいいじゃんか」、「修羅場でいいじゃんか」…

そして、仕事が終わって夜更けの人の少ないの電車の中。ふぅ、と少し一息ついて、カバンから本を取り出して、いざ、ページを探してみる。

期待通り、すっかり忘れてしまっていた。

えっとぉ。何ページからだっけ?それに見出しは何だったっけ?ハテナマークを頭に浮かべながら、パラパラとページをめくってみる。見覚えのある文章が目につき、あぁ、ここだ、ここだ。と安心する。今日のことだもんな。そう簡単に忘れないよな。うんうん。と自分を少しだけ誉めてやる。

気分よく読み進めてゆくと、途中から私は気付いてしまう。

”あ、これ、もう読んだところだ。”

記憶とは随分とあてにならないものだ。けれど、2回同じ箇所を読んだからといって、悪いというわけではない。これが仕事の場合だと、”作業効率が悪い!”などと嫌な上司につばを飛ばされそうだが、それが読書の場合だと、同じ文章でも違った発見があったり、そのときの心の持ち方次第で思わず心動かされたりする時がある。それはそれでいいことかもしれない。

”遠回りは、新たな心の近道である。”
なんて、ちょっと哲学してみたりして…。

そんなふうに、私の心の贅沢な時間は
ゆっくりと流れてゆく。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一