静かな場所で泣きたかった。

ある日のこと、大きなクレームがあった。それはかなりひどいもので、お客様にかなり迷惑をかけてしまった。どうすれば解決できるんだろうと、それまでずっと悩んでいた。

そのとき、ある人の顔が思い出された。でも、私はすぐに打ち消した。それは無理だ、出来ないと。一度、その人と嫌なことがあって、ずっと私は避けてきた。たぶん私が一方的に、あの人のことを避けていた。そのことを、きっと、あの人は知っていたんだと思う。

かつての私の上司だった人。

今は遠く離れたところにいるけれど、電話すればその声は聞ける。そして、このクレームの解決策も教えてくれるかもしれない。いや、きっと「そんなことは知ったことじゃない」とあの調子で、すぐに切られてしまうかもしれない。

でも、今の私のたった一つの望みは、もう、その人しかいなかった。さんざん嫌っておきながら、こんなときだけ助けてもらおうなど、そんな自分が許せない。もちろんあの人もそんなふうに私を見透かすだろう。

けれどももう、どうしようもない。お客様も私の返事を待っている。いつまでも時間があるわけじゃない。もう、その人に電話するしかなかった。

手帳を出して古いページを開く。今はもう、他店舗にいるその人の電話番号をゆっくりと間違えないように私は押した。しばらく鳴り続ける呼び出し音に私はぼんやりと考えていた。

そういえば、今朝のテレビの星座占いで、私の運勢は最悪だったな。やっぱり当たるんだなぁ、占いは。こんなことなら、ラッキーアイテムを覚えておくんだった。なんてそんなつまらないこと。

やがて懐かしい声が、この私を現実に引き戻す。

「はい、○○です。」
「あ、もしもし、青木ですが・・・」
「おお、青木か、珍しいな、どうしたんだ?」
「実は難しいクレームを抱えていて、教えて欲しいことがあるのですが」

この時点で、私は電話を切られる覚悟をしていた。あの人なら、「それはお前の仕事だろ?人に頼るなよ」とあの頃みたいに、冷たく言うものと思っていた。そして、その人は私にこう言った。

「今、商談中なんだ」
(そうか、そうやって見放すんだ。)
「こっちからすぐにかけ直すから待っててくれ。
5分くらい大丈夫か?」
(えぇ?)あまりの展開に、一瞬私は言葉を失った。

「えぇ、大丈夫です。待ちます」
「そうか、すぐにかけるからな」

その人は5分もかからず、すぐに電話をくれた。そして、いろいろとアドバイスをもらった。この場合はこうすればいい。まずは、ご返金の用意をして、ただし、あくまでもお客様のお詫びを忘れずに。返金は、一番最後にすること。大切なのは、最初にお金のことではなくてまずは、お客様へのお詫びと、それが起きてしまった理由と、そして二度と起こらないように、改善を約束すること。それが大切だ」

その後も、いろいろと具体的に教えてくれた。こんなときに、こんなふうに、思いがけないやさしさは思わず涙がこぼれそうになる。電話でよかった。こんな顔、見せなくてすむから。

あんなに私が嫌ってたことを、知ってたはずなのに、どうしてあの人は、こんなにやさしいんだろう?どうして私は、今頃それに気が付いたんだろう?自分が情けなかった。そして、その人のやさしさが、私には辛かった。それでも助けてくれるなんて。

「ありがとうございました。これで何とか解決しそうです」「あぁ、大変だが、がんばれよ。お前なら大丈夫さ」

そうして、その電話は切れた。久しぶりに誰かに私は励まされた。”お前なら大丈夫さ” なんという魔法のような力強い言葉。

そして、そのアドバイスのおかげで、(もちろん、お客様の心の広さもあって)無事、解決することが出来た。私はそのとき疲れきっていた。クレームが終わった安心感と、自分を責めてる未熟な私と、そして私の中で心がまるでゴムボールのように、あちこちにぶつかっていた。

仕事からの帰り道。どこかで泣きたい気持ちになった。自分が情けなくて、情けなくてどこか地球の一番静かな穏やかな場所で、しくしくと子供のように泣きたかった。

私は何を憎んでいたんだろう?あんなに、あんなふうに、心は何に傷ついていたんだろう。まるで深すぎる闇のように、すぐ目の前にあったのに私にはずっと見えないでいた。そのやさしさ、その素直さ。どれも使い古された言葉ばかり。なのにそれが私には見えなかった。

久しぶりに風呂場で泣きたい気持ちになっていた。地球の一番静かな場所で、私は泣きたかったんだ。

海にもぐるようにして
私は風呂の底で泣いた。

いくつもの小さな泡が、涙とともに昇っていった。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一