人を憎む心の仕組み

この頃私は思うのだけど、”誰かを憎む”という感情って、一体何なのだろう?どうして人は憎んだり、誰かを恨んだりするのだろう?そんなことばかり、ずっと考えていた。

その人の行動や傷つける言葉、ちょっとした仕草まで、そのすべてが、ただ憎い。どうして平気な顔して、その人はそこにいられるのだろう?どうして!どうして!と、そんなことさえ思ってしまう。その激しい感情の前に、人は途方に暮れるほどの心の苦しみを味わうしかないのだろうか?

私も仕事をしていて、どうしても憎んでしまう人がいる。とにかくその人が許せない。その理由はあるはずなのに、なぜかちゃんとそれが存在していないような、そんなふうに私はいつも、どこか何かが違うような気がしていた。それは一体何なのだろうかと。

それまでずっと、相手のことばかり私はいつも考えていたような気がする。こんな私は他人から見れば、どんなふうに映っているのだろうか?誰かを憎んでいる私は、果していい人に見えるのだろうか?憎しみを抱いた心のままで、他人に親切に出来るのだろうか?その心のままで、素直な笑顔になれるだろうか?ちゃんと誰かを愛せるのだろうか?と。

そんなはずはない。

きっと、私は本質的なところで、確実にどこかが間違っているような気がした。

私はいままで、相手の行動やいい加減さで”だからあの人が憎いんだ”と思っていた。私はこんなに一生懸命にがんばっているのに、目の前のあの人はいつも私を傷つけている。だから私はあの人が憎い。あの人がいるから憎いんだ。みたいな。つまり、そのどうしようもない”その人の存在”があるから、私のこの心に”憎しみ”という感情が生まれたのだと思っていた。

そうじゃない。
うまくは言えないけど、
きっと、違うと気が付いた。

私があの人のことを憎いと思ったのは、決してその人がいて、その感情が生まれたのではなくて、なんというか、うまく当てはまる言葉が見つからないけど私自身の”心のレベルが下がった”と思うのだ。

例えるとすれば、可笑しな話ではあるけれど、心に折れ線グラフのようなものがあるとして、自分の中に”憎しみ”という見えないヨコ線がその中に一本あるとする。それはたぶん、思春期のまだ未熟な心のヨコ線の位置だったのだろう。つまり、なんでもかんでも世界が憎く思えた反抗期だった頃。それが大人になるにつれ、”許す”という良き感情の線は、それなりにぐんぐん上向きに伸びていく。しかし、いつのまにか、何か疲れた心の理由で、許すという感情が減ってゆき、それがだんだんに下がってしまい、やがてついには、憎しみのヨコ線を下回ってしまう。

そんな時、私に”憎しみ”と言う感情が生まれたのじゃないかと思う。つまり、その相手は単なるきっかけに過ぎず、その憎しみは自分の”心のレベルが下がった”せいなのだと。

それが人を憎む心の仕組みではないのだろうか。

私は誰かのことを”憎い”と思いはじめてから、どんどん自分がダメになってゆくのがわかった。それすら私はその人のせいだと思っていた。仕事で実につまらないミスを多くするようになったとき、どうしてだろうかと悩んだし、そんな中でも、その人への憎しみはいつも消えなかった。

だから、私は思うのだ。その人への憎しみという感情を、単純にその人にダイレクトにぶつけるのではなく、1歩自分から離れた場所から、”どうして自分の心のレベルが下がってしまったのだろう?”とそう考えたほうがいいのではないだろうかと。

こんなこと、人に笑われることかもしれない。”そんなのって、あまりにもお人好し過ぎること”と笑い飛ばされるのかもしれない。でも、いくら相手を憎んだとしても、相手の心の中は決して見えることはない。相手は他人であり、決して自分そのものじゃない。相手の見えない心のままに、果して憎しみという感情はあっていいのだろうか?

心にはいつも坂道がある。その坂道を、人はこの人生の中で、いつも登って行かなきゃならないと思う。登ると言う事は、つまり自分の心の力を使うということだ。何かほかの力に任せてしまうと、何かの拍子に人は転げるように簡単に下ってしまう。まず、それに早く気付くこと。それが大事だと思う。

私はこの頃、ずっと心の坂道を下っていた。
それに気付いた私は、今はもう、
坂の頂上をじっと見つめている。

そこは、まるで私のもっとも大切な
心の一番明るい場所のような気がした。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一