偽りの犯罪者。

そのとき私は、まるで10グラムほどのため息が、ゴトンと音を立てて、床に落ちたような・・・そんな虚しい気持ちだった。

これはもう、時効になったと思えるほどの昔のことだ。今ならもう書いてもいいだろう。

売場に若い女性のお客様がいらっしゃった。とても清潔そうな白い服に包まれ、その左肩には小さなピンクのショルダーバックが抱えられていた。

「いらっしゃいませ」と私は明るく声をかけた。彼女もニコッと、小さく微笑むような仕草をしていた。そのときの小さなえくぼが印象的だった。きれいだなと思った。

彼女は、ヘアードライヤーか何かを選んでいる様子だった。

私はレジカウンターで伝票のチェックをしていた。そんな時、ある商品の価格を確認する為に、私がドライヤーの売場の前を、何気なく早歩きで通り過ぎようとしたとき・・・

聞きなれない音がした。それはとても小さく研ぎ澄まされたような音で「シャー」と何かを閉めるような音だった。

私は少しだけ驚いて、そして振り返った。すると、あの彼女がそこにひとりき立っていた。その細い右手には、バックのチャックを閉めようとした動作のまま、そのままの形で止まっていた。

驚いた・・・お互いに。

私はそのまま、気付かぬふりで通りすぎた。そして、ほんの少し離れた場所から、彼女の行動を見つめていた。ふと見ると、そこにあったはずのヘアーアイロン(5千円相当)がひとつ、売場からなくなっていた。

間違いなく、つい、さっきまであったはずの商品が・・・

私ははっと、彼女の手を見た。彼女のその両手には、細い指があるだけで、その他には何もなかった。私は信じたくなかった。でも、さっきまで私はレジにいた。その商品が売れた形跡はまったくなかった。

彼女が何かためらいがちに、その売場から歩き出す。そこから離れようとしていた。私はどうすればいいものか、一瞬思い悩む。しかし、その現場を見ていない以上、声は決してかけられない。

こんなふうに思うのは、店員として失格だが、声をかけられない状況に、安易に甘えるような安堵感と真実を知りたいと思う正義感が、私の中で複雑に絡みあった。

どうすればいいのか。
いや、どう信じたらいいものなのか・・・

私はしばらく、無くなった商品の小さなスペースを見つめていた。どう見ても、ないものはないだけで、その存在を素直に拒否している。

私はただ、途方に暮れた。あんなに素直そうな彼女が・・・例えば私がペンを落としたならすぐにでも「落ちましたよ」と笑顔で拾ってくれそうな彼女が・・・そんなこと、しただなんて。

私が立ち止まったまま、しばらくそこにいると、その彼女が戻ってきた。それに気づいた私はまるで、息が止まるような思いがした。

私は隠れるようにして、その場を離れ、遠くから彼女を見つめた。無くなった商品の前で、彼女はじっと立っていた。動かない・・・小さく肩が震えてるみたいだ。

私の視線が、その背中に感じるのだろうか?私は彼女から更に遠く離れてみた。彼女の姿が見えなくなるまで私は離れた。

なぜ、あの時、隠れるように遠く離れたのか?今でも私にはよくわからない。わからないけれども、とにかく私はそのようにして、彼女にほんのわずかな時間を祈るようにして与えていたのだった。

わずか、数分のことだった。私がまた、売場に戻ったとき、彼女の姿はもうなかった。そのかわりに、なくなっていたヘアーアイロンが、また、元の場所に戻っていた。

私はその事実さえ、まだ、信じたくなかった。いっそ、そのままなくなっていたほうが、私にとって、そのいかなる小さな理由を、どんな手を使ってでも見つけ出し、決して彼女を犯罪者になんか、したくはなかったのに。たとえ結果的に・・・それが未遂に終わったにしても。

商品がなくなって、また、元に戻っていた。彼女がそこにいて、そして、何も言わずに去って行った。ただ、それだけなのに・・・それだけのことなのに、どうして心はこんなにも、疑い、私を苦しめるのか。

そのとき小さなため息が
また、私からこぼれ落ちた。

そして彼女はもう、二度と
ココに来ることはなかった。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一