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見えないもうひとりの私。

この頃の私は、本当にどうかしていて、何をするにも素直になれない。職場ではいっつも膨れっ面をしていて、一応、お客さんの前では明るく接客をするのだけれども、それが終わると、またすぐ膨れっ面になってしまう。

まるで機嫌の悪い子供のようだ。いや、要領がいいぶん、憎たらしい子供と呼ぶべきか。理由はいろいろとある。長年この仕事をしていると、社内のどうにもならない事情がわかりすぎて、そのうっぷんが、たまりにたまって、いつしかこんな態度になってしまう。

わかっていても、どうかしたくても、抵抗勢力(?)がいつもどこかあって、それなりに努力をしたつもりでも、自分ひとりの小ささを思い知るだけのことで、いつも、なんにもならなかった。そのうちあきらめることを覚えてしまった。

まだ、私が新入社員だった頃、「どうしてあの先輩は、いつも不機嫌な態度なんだろう?」と思うことが多かった。長年勤めているパートさんや、ベテランと言われる社員ほど、その傾向は強く思えた。

「私だったら、いつも明るく接客をするのになぁ」「私だけはあんなふうにはならないぞ」と、その度に心に強く思っていた。

今はその不機嫌な店員の気持ちが痛いほどによくわかる。わかるどころか、今では自分がそうなっている。それはなんて、悲しいことか・・・。

同じ仕事に長く就いていると、次第に笑顔は少なくなる。新鮮さはすでに色褪せていて、同じ事の繰り返しのようにしか思えず、理不尽なことも、その度に黙って堪えることが増えてくる。

特にサービス業においては、その傾向が顕著に出てくる。私はこの仕事を通じて、”人間観察をしている”という事実を、あるとき思い知った。この人間観察の中で、私はどれだけの人間不信と人の恐さを知ったことだろう。

万引き、恐喝、嘘、詐欺、金銭トラブル、恨み・・・それはもう”信じられない”という言葉が、いくつあっても足りないくらいだ。

私には、「見えない私」がもうひとりいて、仕事で苦しむ度に、不機嫌な態度でいる私を、とても悲しそうに、じっと見ているのがわかる。それは同情というわけではなく、とても冷めた感情。

また、誰かに冷たい言葉を投げかけている私がいる。その人に、何も罪はないというのに、言葉で誰かを傷つけている。「もうひとりの私」がそんな私を、憐れみながら見つめている。

”愚かな私”とつぶやきながら・・・。

何度となく、”もうこの仕事を続けるべきではないのかもしれない”とそんな態度をとるたびに、私は思い悩み続けた。でも、日々の生活に追われる度に、答えはいつも後回しになった。

そして今も、答えは見つけられないでいる。そんな私に、「もうひとりの私」が問い掛けてくる。

”じゃあ、お前は一体、何が出来るのだ?”と。

私は何も出来やしない。今はただ、事の成り行きで食品スーパーの仕事をしているだけ。(元々、電器売場店員が長かった私は、それすら満足にこなせていない。)ほかに手には、何も持ち合わせてはいない。なんの資格も、なんの技術も持たない私は、ただの店員にしか過ぎない。

誇れるものがあるとしたら、私には、少しくらいは接客で、人を喜ばせることが出来る。喋り下手な私だから、とても小さなものかもしれないけれど、時として、接客を通じ、私が生きているという価値を見出せることがある。

今はまだ、ダメな私なのかもしれない。積み重なった理不尽な思いは、なかなか消えてはくれないのだろう。それでも私は、私をちゃんと生きてゆきたい。続けることを続けてゆきたい。本当の私というものを、私はまだ、知り得ていないんだ。

そうでなければ、私は私でいられなくなる。
それが今は果てしなく恐い。

今はただ、信じていたい。
その信じ続けたことで、たとえどんな結末が
私を待っていたとしても

そのときの私を「もうひとりの私」が
静かに微笑んで見ていることを。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一