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秋風と彼女のハミング。

夕暮れの出張帰りの電車の中、相席の見知らぬ彼女は、とても幸せそうにハミングをしていた。小さな耳には、うすピンク色のヘッドホンが、子猫が膝で眠っているみたいに、具合よく収まっていた。

あんまりにも楽しそうなものだから、思わず歌い出してしまわないだろうか?と私はそんな心配をしていた。でも、針金をピンと入れたような、美しい姿勢の彼女にしてみれば、そんな心配はなく、ただ、流れる景色の中、その静かな時間を心から楽しんでるみたいだった。

楽しそうな人を見ると、こっちまでうれしくなる。幸せは波のように、他人の心の中にまで、何かを催促しに来るのかもしれない。押し売りでもなく、指示するでもなく”もしよろしかったら”みたいなやさしい心持ちで。

もしかしたら、これから彼女は、彼氏にでも会いにゆくのかもしれない。それとも誰かとの約束を、ずっと待ち望んでた夢のように、叶えにゆくのかもしれない。

そうだったらいいなと、ふと、私はぼんやり思った。そんなふうに思う自分が、なんだかとても可笑しく思えた。

たぶん幸せはそんなふうに、誰かの幸せへとつながってゆくのだろう。そしてその幸せは、ひとりじゃ支えきれなくなって、誰かにあげたくなるのだろう。そう信じられること、そのものが、私にとっての幸せなのだ。

私は今、彼女と同じ風景を眺めている。目に映るすべてのものが、私に何かを伝えてくれそうだ。

静かに時が流れてゆく。光が角度を変えてゆく。夕暮れのたそがれ時は、車内をオレンジ色に染めながら、オータムフェアと書かれ広告は、風もないのに小さく揺れている。

気づけば私はほんのわずかな時間、眠ってしまったようだった。2つ3つ、駅を通りすぎたのか、席の空白が増えていた。とてもしんみりとした寂しい時間が、その場所に流れていた。

目の前には、もう、あの彼女はいなかった。代わりに学生服を着たニキビ面の中学生が、参考書をつまらなそうに眺めていた。

やれやれ・・・と思いつつ、小さなざわめきの中、私は停車駅を降りた。

流れる秋の心地よい風が
まるで、彼女のハミングのように聞こえた。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一