未来を生きるのではなく、今を生きること。
この頃、私は思うのだけど、心のどこかで、「いつか、きっと」という思いが、いつも私の中にあって、それでいて目の前の問題を、私はいつも先送りしているような気がする。
あの頃の「いつか、きっと」という思いは、いつまでも遠い未来にあって、今、こうして思い直して見ても、それがぜんぜん近づいてこない。
”あの頃の未来に、僕らは立っているのかなぁ”
あの歌の言葉に、誰もが心の小さな傷に触れたような思いがしただろう。つまりあの歌と、私の今のこの思いは、本質的なところでは、何一つ変わらないのだと思う。
「いつか、きっと」という思いは、とっくに私を通りすぎていて、いまだに何も出来ない自分自身に、きっと目を背けたいだけなのだろう。だから私は「いつか、きっと」という、どこか逃げてるような思いを二度と心に思い浮かべたくはない。未来に夢を持つことは、もちろん大切な事だけど、未来はいつも、”今”という時の積み重ねに過ぎないのだから。
つき抜けるような青空の中、駅まで道を自転車で風に吹かれながら、私はそう心に決めていた。
今を大切にすることは、つまり、未来を大切にすることと同じ。仕事のこと、家族のこと、これからの人生のこと、悩みはいつだって尽きないけれど、すぐそばにいる大切な誰かを忘れることなく”今を生きたい。”と私は思う。
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この人生の中で、忘れられない言葉というのは、いったいどれだけ出会えるのだろうか?あるとき、そんな言葉に私は出会った。ネットのコラムで何気なく見つけた言葉だ。その言葉の中に、私たちが捜し求めている本当に大切な何かを、まるでその言葉が私たちに、何か重大なヒントを与えてくれているような、そんな気がした。
”空を見上げました。それから、まわりにいる人達を見たんです。”
それが、自爆テロを決行するつもりで、繁華街を歩いていたある国の女子学生が、テロを思い止まった瞬間・・・なのだそうだ。
もし、私がこの人生の100年間、ずっと生きつづけたとしても、彼女のその時の本当の想いは、決してわかることはないだろう。人は未来に、何ひとつ希望を見出せなくなったとき、絶望に打ちひしがれてしまう。でも、自分の命は、自分のものだけではなく、まわりの誰かにいくつもの見えない糸でつながっている。
そう思えたとき、私達はきっと、未来に生きるのではなく、今を生きなければならないと気づくのかもしれない。彼女の思いは、私のそれとはるかに違って、もっと高い所にあるのだろうけど、でも、これだけはきっと言える。まわりの誰かを想うとき、人はいつだって、本当の自分に帰れるのだと。
これからの人生に、何も見出せなく不安になったとき、私は彼女の言葉を、そっと思い出そうと思う。
空を見上げ、そして
まわりの誰かを想いながらも・・・。
最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一