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あの頃の万引き未遂事件。

だいたいなんだって、あんなに大きなシャワートイレの箱を盗もうなんて思ったんだろう?これはまだ、私が電器売場の店員だった頃の話だ。

店から持ち出そうとしたところを、私服警備員に捕まったようだ。警察も来た。一応、私も事情聴取みたいなものを受けた。私が犯人じゃないのに、書類作成の為にと指紋を取らされた。

「一時的なものですから、この指紋はすぐにリストから消しますので」

そうニコニコと笑いながら中年の警察官は言うけれど、本当だろうか?とつい疑いの目を向けたくなった。こればかりは、何度経験しても嫌なものだ。

その犯人は、大人しい小動物のように、ちょこんと座っていた。実に素直そうな、どこにでもいるような普通の青年だった。その顔に表情はなく、青白い顔がとても印象的でふっと口で吹いたなら、すっと消えてしまいそうな存在だった。

こうして並んで座っていると、仕事に早く戻りたくてイライラしている私のほうが、よっぽど犯人のように見えるからしゃくにさわる。”もう、白状するから勘弁してくれよ!”って思わず投げやりな気持になる。

たぶん彼はシャワートイレが欲しくて盗んだ訳じゃないのだろう。でも、そんなにしてまでお金が欲しかったのか。そう思うと、なんだかとても切なくなった。

そのことで、彼の人生は間違いなく遠回りになるのだろう。それまでの彼の人生を、もちろんは私は知らないけれど、生まれた頃、幼い頃、まだサンタを信じていた頃、初恋の頃、失恋の頃。それらすべてを抱えたままで、彼はどこでつまづいてしまったんだろう?どこで見失ってしまったんだろう。

他人である私からすれば、彼がどうなろうと関係ないし、どうでもいいことだ。”シャワートイレなんか万引きして捕まって、バカなヤツだなぁ”なんてちょっと思って忘れるだけだ。あの頃はいつだって、自分のことでいっぱいだった。

でも・・・と私は思った。

もし、あの商品を、あんなところに置いていなければ、私がもっと早く気付いて、彼に声をかけていたなら・・・もしかしたら、彼は間違いを犯さずに済んだのかもしれない。

まぁ、今さら私が気休め程度に、悩んだってどうしようもない。時はそんなふうに流れてしまった。もう、巻き戻せはしないんだ。これを何かのきっかけにしてくれたらいいと思った。

・・・なんて。

考えもしたけれど。

彼は相変わらず小動物のように
静かに焦点の定まらない目で
じっと、床を見つめていた。

がんばれ・・・。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一