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消えてこそ、のこるもの。

花火は消える。

打ち上がり、一拍おいて
華麗に咲く
そして花火は消えてゆく。

静寂と轟音をあやつり
空に舞う巧みな大輪たちも
所詮は火なのだと知る。

点いた火は、いつか消えるもの。
なぜ私は、花火に魅了されるのだろうか。

風物詩として

どこかのベランダから聞こえてくる風鈴の涼しい音色。蚊取り線香のにおい。虫とり網を意気揚々と構えて歩く少年と、その隣りをゆくお父さん。
ヨーロッパに留学した時の「夏」とは明らかに異なる「なつかしい夏」を感じる機会に、今年は多く恵まれた。

とりわけ、友人のSNSで観た花火の様子には、直接この目では見ずとも感じ入るものがあった。
人間が到底敵うはずのないほどの、圧倒的なあの大きさ。強烈な音と光は瞬間にして胸を打つ。不規則なリズムを感じたのも束の間、夏の夜の儚い温度と煙の残り香にひたる。大会ともあれば、傘下で眺める人々には、いつのまにか「同じ空を仰ぐ」という一体感すら生まれる。
たとえプログラムは機械的であっても、観る人はあの空に何かを感じ、何かを想い、打ち上げる人は何かを込め、何かを託すのだ。

とても不思議な感覚だった。
僕が目の当たりにしたわけではないのに、花火の"あの体験"が、画面越しにも感じられた。
いや、むしろ画面越しだったからこそ、僕の内にあった花火という体験が"呼び起こされた"ともいえる。

僕の内にあった「夏」という体験。
僕の内にあった「花火」という体験。
留学中や画面越しの鑑賞でも、それらが懐かしく想い起こされた瞬間は、自分の内に残っていた体験が肌感覚として再現されたような不思議なものだ。

では、かつての体験が自らの内に"のこる"というのは
一体どういうことなのだろうか。
そして、内なる体験は
どのように、のこってきたのだろうか。

消えゆくもの

私は、"のこる"ということが消えることへの理解から始まるのではないかと考えた。
音楽や花火の観方を例にしてみよう。

音楽も花火も、一方向への時間の流れを楽しむ芸術だ。一度放たれた音や玉は二度と戻らない。常に進行し続けているという方向性がある。つまり、音楽では音が「鳴り続けている」とも、放たれた音が「消え続けている」ともいえる。始まると同時に常に終わりに向かいつづけている芸術なのだ。花火の大輪も、咲いては必ず消えてゆく。
(もちろん、動画などの媒体を考えれば、巻き戻しや逆再生も可能だ。それも楽しみ方の一つではあるが、ここでは連続一方向的な流れとしての楽しみ方を主としよう。)

そう考えると、身近な「消えゆくもの」は他にもたくさんある。
「今」という瞬間も、戻ることはない。「今」は常に過去になり、消えてゆく。
「生け花」も、咲いては枯れゆく花のひとときを愛でるという意味で、楽しみ方が似ている。華やかなその姿は必ず消えてゆくものだ。
すなわち、"生命"というのもまた、生と同時に死(消滅)に向かい進み続ける芸術なのかもしれない。

消えゆくことは、ときに儚くも感じられる。しかし、花火といえ音楽といえ、"消える"ということを鑑賞者は予め心のどこかで当然のものとして捉えているからこそ、その芸術が成り立っているともいえる。

「戻ることはない」「永遠には続かない」「必ず消えゆくものだ」という"消えることへの理解"が、目の前を楽しむための土壌となるのだ。

消えるからこそ、のこす

放たれた音、華やかな花、生まれた生命。
消えゆくことが前程であるというものは皆、それ自体が空虚なものなのだろうか。
たしかに、存在としての形を今のままとどめることはない。音は消え、花は枯れ、生命は死を迎える。
しかし、その全体をより広く、"一連の流れ"として捉えてみよう。すると、一音は一曲という流れの中に。枯れる姿は花という一生の中の一部であり、今という瞬間も一生という時間の一部なのだと認められる。いうなれば、部分と全体の了解だ。

花火であれ音楽であれ、目の前の瞬間が消えゆくことを知りながら、それは一連なる流れの一部であるとも認める。ある体験が内なるものとして"のこる"という現象は、この了解によって発生すると私は考えている。感動した思い出が後々になっても色褪せず、むしろ時が経つごとに色濃くなるという体験は私だけのものではないだろう。「消える(時が経つ)からこそ、(内に)のこる」のだ。

しかし、すべての体験が内に"のこる"わけではない。内なる体験は、「残そう」という主体性のもとに育つからだ。その意味で、「消えるからこそ、"のこす"」この主体的はたらきこそ、私の体験が自らの内に刻まれてきた理由だ。

「消えるからこそ、のこす」というのは、通過ではなく経過だ。
目の前の一瞬とともに、その前後一連の流れに想いを馳せること。それは単に出来事を「通過」する受動的なものではなく、わが事の経験として内在化していく「経過」という能動的な営みだ。
内に残ったものは、そう簡単に消えない。それは自らが"残した"ものであり、体験として経たものであるからだ。
そして、この「経過」ということに、とりわけ私は魅力を感じている。そして「経過」することの美しさを具現化しているものが、私の愛する「古物」(古い服や古道具)なのだと考えている。

経ること

必ず消えゆくという無常への理解。
だからこそ"のこす"という能動的な経過。
この営みによって、私の内なる体験は刻まれる。
そして、一瞬の出来事が永遠になるかのように
それは私の経験として豊かなものとなってゆく。

時を重ねて朽ちてゆく姿。
それもまた自然なのだと、
古物は経てゆくことで
私が生命であることを教えてくれる。

この暑い夏はいつか必ず過ぎるという安心感。
そしてのこる、あのひとときへの懐かしさ。
花火は消えることで
夏が季節であることを教えてくれる。





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