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『劔岳 点の記』

『劔岳  点の記』(2009)
これは、公開時映画館で観ていた。長野県佐久市で。

 『劔岳/点の記』(2009)
これはもぉぉ~~~~… すごい。
上映時間2時間19分。ぜんぜん長くなかった。
 願わくば、も少し、山の映像にひたっていられる様な、そんなじぃっくりした長さのシーンが、欲しかったなぁ。
  私としては、あ、この画、もっと見ていたいのにぃ、てなとこが。

空撮CG、いっさいなし!  だそうだ。

一ヶ所だけ。雪崩のシーン。あれは? どうしたんだろ?   あの場で人工的に雪崩をおこさせたんかな?ちょと気になった。

  南壁を登るに関しても。。 ?
あ。一ヶ所だけじゃなかった(^_^;)))

山岳会の連中の中に、ヨーロッパ式アルパインスタイル(?登攀技術)を学んできた人はいなかったんかな?つまり、岩壁の登攀。ハーケンとかハンマーとかアブミとかロープとか使っていけば、なんとかなったんでなかろか、と。?
あの頃。日本に山岳会ができたてで、装備用具やビスケットとか、手に入れられてたくらいかな?。

パンフの中で、浅野忠信へのインタビュー記事(もちろん、他香川や松田や仲村や別所とかのもあったけど)の中に、まことに興味深いのがあった。

 浅野いわく、
「いつ自分になってもいいと思える瞬間がいくつもあった。僕らは明治時代の柴崎さんたちと同じ場所同じ状況にいて撮影してる。そうすると、今自分が感じてることは、絶対柴崎さんも感じてたと確信できる。だから、そこで自分自身に戻って僕が思ったことを言ったり、感じたことを体で表現しても、それは柴崎さんも経験していたことだと。 本物の場所で撮るということは、こういうことかと思った。」

 関連で、仲村トオルのインタビュー記事。

 「最初の頃、小市君と二人で劔御前まで行って初めて劔岳の頂上を目の当たりにするカットを撮った。その時に〈ここは東京のスタジオでグリーンバックを前に合成カットを撮ったら、きっと息切れしてみせたり、劔岳を見た感動と畏怖の念を何とかして表現しようとするだろう。  でも、俺たちはほんとうにここまで登ってきたんだから、ただ山をみていればいいんだよな〉と感じた。  おそらく、この映画での僕らの仕事は、まるで合成だと言われてしまいそうな凄い映像を、実際にその場に立っているんだと証明してみせることなんじゃないか。 そんなことを香川君とも話し合いました。」

  浅野忠信の言葉から、やはり演じているんだなぁと思った。

 意識して役になりきることをしているタイプというか。   以前、松山ケンイチについて書いたことあるが、彼は憑依型タイプだった。 意識して演じるという感じではないらしい。

しかし、この時浅野は、  役を演じるのではなく、自分自身が感じていることをそのまま表して、それでいいと・・

  映画撮影においても(演劇舞台空間と同様に)、人工的空間の中で、創作された役になりきることを要求されることがもちろんある。ことに 屋外ロケじゃなくて、スタジオ内セット撮影の場合。
 けれども。 大自然の中で、映画撮影ではありながら、やたらな?演技などむしろ不必要なのだ。  さもありなん、と思う。大自然の中で、そらぞらしい演技なんかしてほしくない。  (さて。『植村直己物語』での西田敏行は、、どうだったろう?)

   まさしく、仲村トオルの言葉も象徴的だ。
確かに、合成やCGでやれるかもしれない。 が、しかしなのだ。

木村大作は、監督に言われた通りに撮影するだけのキャメラマンではなかったし、師匠と仰ぐ人は、撮影助手としてついた宮川一夫とかではなくて、むしろ黒沢明だったと言っている。。?
一切の妥協をせず、自分がやろうと思ったことをやり通す“本物の映画作り”はもうできないのかということに挑戦したのだそうだ。

 「これは、映画撮影ではない。行である。」、そうだ。

       蛇足。
    キャスティングに関して。
(^^ゞ 雑感です。
  ・蟹江一平は、蟹江敬三の息子なんじゃない?
松田龍平もいるし。で、なんとなく。 小市慢太郎、って平田満に似てる気がした。(^^ゞ だから?だけど。

  ・それからねぇ……
陸軍少将に笹野高史、
山の行者に夏八木勲、なんだけど・・ん~~~~、これは、なぁ…     逆なんでないかなぁ?

・長治郎の妻に、鈴木砂羽。これは?。 垢抜けしすぎてやしないかなぁ?

蛇足②
この映画で、「木村大作、  たいしたものである。」と思ったんだけど。
二作めの『春を背負って』。これはダメだった。↑上記、キャスティングに関しての私の危惧もあったし。
何よりも、設定をまた北アルプス(立山?)にしてしまった、その安易さは憤まんもの。更に、ラストの方のグルグル回るカメラ撮影シーン。恥ずかし過ぎる。

蛇足③
日本山岳会創立者(の一人?)、小島烏水は、ぬぁんと、横浜正金銀行員だった。
で、小島は定年まで勤めあげていた。
小島烏水が山岳会を設立したのは明治38年。
 渋沢敬三が東大経済学部卒業後、横浜正金銀行に入ったのは大正10年。で、渋沢は五年程しかいなかった。その後、祖父、栄一が設立した銀行へ移っている。  









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