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記録、と記憶


記録したくなるのはなぜだろう?

 ヒトはどうして記録したがるのだろう?
古くは洞窟絵?
 文字がない言語があるし、文字に頼らない暮らしが今でもある。

文字を発明してしまってからだろう。記録したがる様になったのは。

 それはさておき。
私は、現実感覚がなかったからだった。
記録しておかないと、ほんとにそうだったのか判らなくなるのだ。 自分が死ねば自分が存在していたことがどこにもなくなってしまうんじゃないか、そんな不安感があった。
  ……………

 今は……また違った意味で、時間の経過が信じられなくなっている。
つまり、僕はみごとにおじさんに変身してしまった!!
 それはいつ頃からだったろうと思うことがあって、気にしていたのだけど、どうやら、2002年夏、佐久を出ていこうと決めたあたりからだった、ようだ。
  2000年にオーストラリアでSACRED-RUNがあり、翌年渡米していて、その二つの写真を見てみたら、'01年のサウスダコタのバッドランドでの写真ですでに「変身」しかけていた。

  とにかく。
私は、'06年にも渡米していて、つまり、50歳を過ぎても風来坊のままだったというわけ!)^o^(
 2009年に、ようやく?田舎に格安の一軒家が借りられた・・
もう歳も歳だし、若い頃の様にはいかなくなっている。私もずいぶんと腰が重くなったもんだと、我ながら感心する、のであった。w

  そうそう。題は『記録』でした(*^_^*)

   
  変身しても、たいして代り映えはしないけど、最近は日記(手書きの自分ようの)をかいておきたい気がとんとおきなく、だぁいぶほったらかしだ(^^)

  佐久に実家がなくなって、私物を置いておける場所がなくなり、 私物はなるべく少なくしておこうと思っていた・・
  今、一軒家を借りている。私物が一ヶ所にまとまっている。
日記や写真にはたいして拘りはなくなってきたと思うけど、、セイクレッドランTシャツとかインディアンにもらった聖なるものとかビーズとか貴重な(自分にとってはだが)物は、、どうしよう。
 もちろん、ここにデェンと錨を降ろして居ついて根をはるつもりなら、なんら問題はないが・・



  さて………・・?

記録は、永遠への挑戦なのではないか。

  生命の尊さとはかなさを知ったニンゲン(ホモ・サピエンス)は、神や宗教(諸行無常)やミイラやお墓や、様々な概念や方法を編み出した。
  科学の進歩は、文字印刷機械を発明し、映画を生み音を記録し、さらには3D・ディジタル映像・インターネット世界だ。  ユビキタス社会は、いずれ触角や嗅覚をも知覚記録を可能にするだろう。

  私がフィクションを必要としているのと、大いに関係している。
現実にどんどん手を出していく人とそうでない人とがいるわけで。  
 家族も会社も国家でさえ共同幻想と断じたのは岸田秀(和光大学教授。精神分析学者)だったが、僕は明らかに自分の現実から乖離していた。

 自分にとってはまさに正確な記録のはずだが、写真・映像以外は日に日に脚色されていく。
記憶は曖昧だ。

 

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