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心震える、偉人たちの生き様をご紹介します 【次に観るなら、この映画】10月15日編

 毎週土曜日にオススメの新作映画をレビューする【次に観るなら、この映画】。今週は3本ご紹介します。
 
①クリステン・スチュワートがダイアナ元皇太子妃を演じた伝記ドラマ「スペンサー ダイアナの決意」(10月14日から劇場で公開中)
 
②早世の天才メイクアップアーティストの人生に迫るドキュメンタリー「メイクアップ・アーティスト ケヴィン・オークイン・ストーリー」(10月7日から劇場で公開中)
 
③キュリー夫人として知られるマリ・キュリーの伝記ドラマ「キュリー夫人 天才科学者の愛と情熱」(10月14日から劇場で公開中)
 
 劇場へ足を運ぶ際は、体調管理・感染予防を万全にしたうえでご鑑賞ください!
 


「スペンサー ダイアナの決意」(10月14日から劇場で公開中)


◇清らかな偶像ではなく、生身の戦うダイアナにオマージュを捧げたラライン監督の挑戦状(文:佐藤久理子)

 
 その存在自体がパンクであるようなクリステン・スチュワートと、ダイアナ元皇太子妃。この一見ミスマッチな組み合わせこそが、パブロ・ラライン監督の狙いであり、この作品を独創的にしている所以だ。なぜならここで描かれるダイアナは、運命の犠牲者ではなく、前代未聞の勇気ある選択をした女性だから。庶民には想像を絶する圧力のなかで、彼女がどんな思いであの決断に至ったのかが、エリザベス女王の私邸サンドリンガム・ハウスの、「寒くても暖房を入れない」冷え冷えとしたクリスマス休暇のなかで描かれている。
 
 もともとダイアナ好きだった母親の影響で、自身も彼女のファンになったというラライン監督は、とくに母としてのダイアナの姿に光を当てる。のちに恋多き女として語られた彼女ではあるものの、子供たちの前では良き母であり、彼らとともにいるときの表情は柔らかい。
 
 一方、ひとりでいる際のダイアナは追い詰められ、手負いの鹿のような様相だ。「あの女と同じ真珠は貰いたくなかった」とつぶやき、Fで始まる四文字言葉を何度も口にする。ラライン監督は明らかにここで清らかで偶像的なダイアナではなく、生身の人間としての彼女をクローズアップする。
 

Photo credit:Pablo Larrain

 スチュワートはダイアナの上目遣いやしぐさを真似、驚くほど瓜二つであると同時に、型にとらわれることなくその内にある力強さや反抗心を解放している。いわば彼女のフィルターを通したダイアナなのだ。
 
 ラライン監督のもうひとつのチャレンジ、それは本作にゴシック的な世界観を与えていることだろう。中盤、ダイアナが屋敷を抜け出し、近隣にある自身の生家を訪れる。いまは廃墟となったそこは父親と子供時代の思い出に満ち、彼女にある幻影をもたらす。この謎めいたシーンは、彼女の心に巣食う脅迫観念と、無垢な子供時代への郷愁を同時に表現しているように思える。
 
 「ストーリー・オブ・マイ・ライフ わたしの若草物語」でアカデミー賞衣装デザイン賞に輝いたジャクリーン・デュランによる見事な衣装はもとより、ダイアナの心の不協和音を表現するようなジョニー・グリーンウッドの音楽もまた、本作の忘れられない魅力のひとつ。
 
 すべてが綿密に計算された行き詰まるテンションは、だからこそラストシーンに鮮烈な開放感をもたらす。ラライン監督がフェミニストであることが確認できるはずだ。


「メイクアップ・アーティスト ケヴィン・オークイン・ストーリー」(10月7日から劇場で公開中)

◇美の定義に革命をもたらしたアーティストの、せつなくも魅力的な肖像(文:若林ゆり)

 80年代後半から90年代、ニューヨークで花開いたファッション・フォトグラフィーには、いまも人々を惹きつけてやまない美しさがある。それはスーパー・モデルや女優といった美女たちが写っているからというだけじゃない。その女性たちをより美しく見せたアーティストがいたからだ。その筆頭が、ケヴィン・オークイン。細眉、リップライナー、コントゥアリングといった、いまでも人気のあるメイク術を打ち出し、メイクアップをアートに押し上げた張本人だ。

 本作は、豊富なメディア映像、写真、ホームビデオ、ケイト・モスやナオミ・キャンベル、シェールら超豪華セレブたち、家族、親友、元恋人の証言によってペイントされた、のっぽで大きな手をもつケヴィンの肖像画。監督のティファニー・バルトークは自身もメイクアップ・アーティスト経験者だけに彼の偉業を讃えながら、光を当てて影も見せ、ヌーディ系のメイクを施すように人となりを描きだす。

 ケヴィンは実の親に捨てられたが愛情深い里親に引き取られ、4人の養子の長男としてルイジアナ州の田舎町で育った。少年時代の彼は母や妹たちにメイクをするのが大好きで、バーブラ・ストライサンドに夢中な男の子。つまり、ゲイだった。その時代の南部では当然、いじめの対象になる。虐げられた記憶は彼を苦しめ、「人に認められたい」という原動力となり、彼を突き動かした。

 ニューヨークであれよあれよと成功していく彼の姿は、めくるめくミラーボールのよう。「誰もが美しさをもっている。僕はメイクでその人独自の美しさを引き出したい」という信条を持ち、既存の美を打ち壊して多様性の許容を訴える、彼は美の革命児だった。欠点も語られてはいるが、誰が彼を嫌いになれる? 彼自身の華やかなチャームは抗いがたいほど素敵だし、「人に認められたい」という承認欲求も完璧主義も共感できる。それにインタビューで語るすべての人が、彼を愛していたことが確かに伝わるからだ。まるであの時代のファッション業界で、彼との思い出を持ったような気持ちにさせられる。そう、名だたるファッション・アイコンたちを虜にした彼は、間違いなく稀代の「人たらし」でもあった。

 ところがケヴィンのドラマは、悲痛な幕切れを迎えることになる。身体的な(そしておそらく心理的にも)痛みに追いつめられて耐えかね、鎮痛剤に依存して自らを滅ぼすのだ。たった40歳の若さで。

 ケヴィンの痛みは、単に病気のせいだったのか。それとも過去のトラウマから来る自己評価の低さが原因となったのか。その真相はわからない。それでも彼の人生は、悲劇と呼ぶにはあまりにも美しい。彼の遺した永遠の美学、友人たちが浮かべる悔恨の表情が、それを物語っている。


「キュリー夫人 天才科学者の愛と情熱」(10月14日から劇場で公開中)

◇19世紀末、男性社会で成功をおさめた移民女性の戦いと人類への貢献(文:矢崎由紀子)

 監督は、イランからパリへ移住し、アニメ「ペルセポリス」でカンヌ国際映画祭の審査員賞を受賞したマルジャン・サトラピ。彼女にとって、ポーランドからパリへ移住し、2度ノーベル賞に輝いたマリ・キュリーは、男性社会で成功をおさめた移民の先輩にあたる。その思い入れが、強く感じられる作品だ。

 掲げられたテーマは2つ。ひとつは、女性の社会進出が困難だった時代に、ノーベル賞を2度受賞したうえソルボンヌ大学初の女性教授になったマリの強靭さを描ききること。もうひとつは、彼女と夫ピエールが行ったラジウムの発見と放射能の研究を通して、科学の功罪を検証することだ。とくに後者に関しては、放射線によるガンの治療から日本への原爆投下、さらにはチェルノブイリ原発事故にまで話が広がる。映画全体に、作り手の濃いフィルターがかかっていることを感じさせる構成だ。

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 フィルターの濃さは、テーマ1のマリ・キュリーの人物像にしても、しかりだ。ロザムンド・パイクが演じるマリは、ちょっと頭を下げればすむような場面でも、ぜったいに折れず、妥協せず、謝らない。共同研究者の夫ピエールが単独でノーベル物理学賞の授賞式に出席したときは、帰宅した彼を激怒してひっぱたき、「あなたは私より劣る」とマウントをとる。いまの時代なら、私生活では鬼嫁と呼ばれ、職場ではパワハラで訴えられそうなキャラだ。これが実像にどれほど近いかはわからない。が、少なくとも脚本家のジャック・ソーンとサトラピ監督は、19世紀末に移民女性の立場でマリほどの成功をおさめるには、これくらい強烈な人物である必要があったと考えたようだ。

 ピエールの死後、妻子ある部下と不倫したマリは、世間から猛烈なバッシングを浴びる。その敵意も、あるいは同情や好意もはねつけ、つねに戦闘モードで生きるマリは、まさしく孤高の人だ。そんな彼女が晩年に取り組んだのは、第一次世界大戦の負傷兵の治療に自身の研究を役立てることだった。彼女の戦いの究極の目的は、人類への貢献だった。それが、マリの科学者の矜持であったことを、この映画は強く印象付ける。

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