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【一首評】3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって(中澤系)

習慣化された過程は気に留められないものだが、この社会を占める多くの〈理解できる人〉にとって前段の通達は、後段の命令の予告になりうる。

文: シゲフミ


3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって

(瀬戸2021: 79; 山田(編著)2015: 16, 18より)

この一首は歌集『uta0001.txt』の巻頭を飾り、鮮烈さをもって迎えられてきたという(e.g. 山田 2008)。だが、数多の読者をたじろがせた異様さは、どこから感じられるものだろうか? よりハッキリと言ってしまえば、いったい何が妙だとされたのか?

言≒動としての言葉づかい

まず発話行為、何か言うことは即ち何かを行うことになるということに目を向けたい。三句までの「3番線快速電車が通過します」は、実質的に「だから退け」と指図、あるいは「退いてくれませんか」と依頼する陳述、どのみち他者に呼びかけて行動の変容を促すものとして、間接的に作用する発話行為と捉えられる(cf. カルペパー・ホー(著)椎名(監訳), 加藤[ほか](訳)(2020): 207ff.)。こうして予告の段階で示唆に留め、後はスキップしてしまうというのは、日常的なやりとりの中でよく見られる。特に、ある場面や活動の中で繰り返される振る舞いならば、学びの対象となって予測が立つからだ。従って、「電車が通過します」とアナウンスされた時点で既に、後ずさりという回避行動が可能になる。

もっとも、人には慌ててホームに駆け込み聞き逃すこともあれば、端折られた主張を感知するのにも得手不得手があって、周知を徹底するために、一般にも「黄色い線までお下がりください」などと続く。しかし、そのような一連の流れは普段、気に留められない。こうして多くの、通達が段階を踏まえたものであると「理解できない人」に向け、改めて「下がって」と直接的に作用する発話行為として明示化したのだとしたら、日頃は意識されない言語慣習をパラフレーズして突きつける、割りと素直な作りである。

円滑な伝達と関係のための言葉選び

次にポライトネス、言語上の対人的な距離感の調整の問題に移ろう。先ほど相手に対する働きかけの段階性へ言及したが、これには続きが想像できそうな内容を述べると直截な物言いを避けられるという側面もある。これが、時に適切な態度だとされやすい。例えば、誰かを言いなりにさせることは、自由意志への侵犯として礼を失する言動だと理解されているためである。ゆえに、指示や依頼が避けえない場合は、その負荷を減じるべく、敬語の使用、他者の事情への言及、意向の確認といった何らかの策が講じられる(cf. カルペパー・ホー(著)椎名(監訳), 加藤[ほか](訳)(2020): 255, 262)。

翻って、中澤の一首に現れる、不特定の相手に対する要望が剥き出しにされた「下がって」に関しては、困惑や威圧感を覚える評が散見された(e.g. 宮台・穂村, 2018)。恐らく、あって然るべき対応でないからだ。日本語の環境において、公の場での敬語使用は半ば義務的であり、常体は対人配慮を欠くように見える。ましてや命令とくれば、ことさら異様に思われてしまうのだろう。この一首の組み立ては語用論的に、文法規則というより運用原則から外れるためにポライトでないと受け取られやすく、文学的には異化作用をもたらす。

作品が直には語らない、メタな理解を説明するのが評である

以上、なにも目新しいことを言っているわけではない。多くの人は、パッケージされた言語慣習を既に〈理解できる人〉である。一方で、補助線なしにはコミュニケーションのありようをメタに〈理解できない人〉だからこそ、暗黙の伝達構造を突きつけるような一首に戦き、批評性を感じとる。
こういったナゼを改めて解きほぐしてこそ、言葉に即した評ではないだろうか。言語学的文体論の作法と知見は、きっとその役に立つ。


参考文献

ジョナサン・カルペパー, マイケル・ホー(著), 椎名美智(監訳), 加藤重広・滝浦真人・東泉裕子(訳)(2020)『新しい語用論の世界――英語からのアプローチ』研究社.
瀬戸夏子(2021)『はつなつみずうみ分光器――after 2000現代短歌クロニクル』左右社.
山田航(編著)(2015)『桜前線開架宣言――Born after 1970現代短歌日本代表』左右社.

参考URL

現代歌人ファイルその7・中澤系(閲覧日:2024/08/14)

宮台真司×穂村弘トークセッション「歌人・中澤系が生きた時代、そして今」(閲覧日:2024/08/14)

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