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「能力主義」について、ニート生活と社会人生活を両方経験して分かったこと。

1.「能力主義」(メリトクラシー)について

世の中、高い収入を得ていたり、人々から尊敬されている有名人は、何らかの能力に秀でていることが多いと言われます。

なので、「能力=人の価値」と考えられがちですが、実はそれってあまり根拠がないよねってことを、私自身、ニート生活や社会人生活を両方経験してみて強く思ったので、今日はそのことについて書いてみたいと思います。

2.時代・環境によって求められる「能力」は変わる

中学2年生の頃、Beatmania IIDXという音ゲーを始めました。かなりのめり込んで、10代の5〜6年間ぐらい、ひたすらやり込んでました。ニート生活をしてたときも、毎日ゲームセンターにコインを投下してました。ただ、私自身、下手の横好きというか、そのゲームの才能があまりなかったので、全国ランキングで500位とかそのぐらいが精一杯でした。

その後、大学に入ったら、私よりも数年後にこのゲームを始めたにもかかわらず、全国ランキング30位以内の常連になるすごい友人がいました。天賦の才能で、ガチで尊敬しました。

ただ、当時、Beatmania IIDXの能力がどんなに高くても、それで食っていく環境がなかったため、彼は非常に非凡な才能を持っていたにもかかわらず、それを職業・収入につなげることはできず、音ゲーとは何の関係もない職業に就職していきました。

一方で、もし彼が圧倒的に将棋が上手く、全国30位ぐらいの実力だったら、どうでしょうか。それはもう、プロ棋士になって食っていけます。藤井壮太二冠しかり、プロ棋士は学歴がなくても「すごい、頭良い」と尊敬され、お金もたくさん稼げます。

当たり前のような話かもしませんが、音ゲーも将棋も、基本的に社会の役には立ちません。ただのレクリエーションです(将棋は伝統という側面もありますが)。観客・ファンを感動させる・勇気づけるという要素は、どちらにもあります。プレイ人口は将棋の方が多いかもしれませんが、基本的に本質的な違いはありません。競争の苛烈さは、将棋がBeatmania IIDXを上回るとは思いますが、もし同じぐらい競争が苛烈であったとしても、おそらく状況は変わらないでしょう。

にもかかわらず世の中一般から広く受容され、認められているのは、将棋です。

これは一つの例ですが、他にも例えば、小学校では足の速い人が「能力がある」とみなされモテますし、また、数百年前の中国では、偉くなるために四書五経と呼ばれる書物の内容を全暗記して、的確に引用できることが、高い能力だと見なされ、出世につながっていました。

しかし、現代のビジネス社会では、足が速いとか、四書五経がうまく引用できたとかで評価されることは、まずありません(記憶力が高いことは頭の回転が早いことのシグナルとして見られる傾向はありますが)。

そんなわけで、「能力」と呼ばれるものは、その時代・環境が生み出した共同幻想のようなものです。

3.能力主義(メリトクラシー)の落とし穴

とはいえ、「現代社会は資本主義なのだから、お金を稼げる能力が高い人ほど価値がある」という反論もあると思います。外資系金融機関や士業事務所なんかで年収何千万も稼いでる人なんかは、そういうふうに考える人は多いかもしれません。

しかし、収入を能力の単一の尺度としてしまうと、例えば私の親戚の地主は、ただ毎日アニメを見たりゲームをしているだけで、そこらのバリバリ稼いでるエリートサラリーマンをはるかに上回る所得を安定的に得ています。彼・彼女は、相続によって自分の土地を得ただけで、何の努力も才能も発揮していませんが、資本主義社会では、彼・彼女の能力は極めて高いということになってしまいます。

企業の会計担当者は簿記の能力があると便利だよね、とか、営業マンがコミュニケーション能力高いと契約取れるよね、みたいな、組織を効率的に回すのに便利な能力はあります。しかし、所詮それも、MMO(オンラインRPG)の世界で、強力な武器や魔法が使える仲間がいると、強い敵を倒すのに便利だよね、みたいなバーチャル世界における機能論と本質的には同じであり、ある組織で評価される能力が、人の価値を決定づけるものではないということは、客観視しておくと良いかもしれません。そもそも企業・組織における上下関係や役職というものですら、MMOにおけるバーチャルな人間関係と本質的には同じ気がします。

また、自分自身に高い能力があると思っていても、世界レベルの国際競争に身を置いてみたら全然駄目だってこともよくあります。日本でそれなりに評価されていた大学院生が、意気軒高とアメリカに留学してみたら、世界レベルの学生に全く歯が立たず(本人曰く「日本で偏差値70だったのが米国に行ったら偏差値40になった」)、なんとか6年かけて卒業できはしたけど、この世界で戦うのはしんどいということで、撤退して、全然別の分野に就職した知人もいました。なので、そういう挫折があったときに、「能力=自分の価値」と認識していると、結構きついんじゃないかと思います。

4.人は誰しも何らかの才能を持っているのか

求められる「能力」は時代や環境によって異なる、という話をしましたが、それでは、人間誰しも何かしらの才能を持っていて、環境さえ変えれば自分の真の能力を発揮できるのかというと、おそらく、大半の人は何の才能もありません

生存バイアスという言葉がありますが、外に出て、目につく人、例えば、通りを歩いていたり、電車・バスのような公共交通機関に乗っている人たちは、それだけでフィルターを潜り抜けた上位層です。事実、可視化されていないだけで、ずっと引き籠っていて家の外に出れなかったり、心や体の病気で入院して外に出れない人はいっぱいいます。ましてや、毎日規則正しく家と職場を往復できる人なんて、日本人の上位何パーセントなんだろうと思わないではいられません(少なくとも、日本の人口が1億2千万人いて、偏差値50以下・IQ99以下の人々が約半数の6,000万人程度ということは、ざっくり認識しておくと良いかもしれません)。

私自身、ヒキニート時代はただのウンコ製造機であり、具体的には、朝5時までゲームしてアニメを見始めて、日の出とともに寝て、夕方に目が覚めて、ふらっと近所の古本屋で漫画を立ち読みして、家に帰って飯食って、朝までゲームしてアニメ見て・・・という惰性の繰り返しで生きてきました。今でこそ社会復帰できましたが、基本的にこうやってカタカタ文章を書いたり、仕入れた商品を右から左に流すことで日銭を得ています。他人より秀でた能力なんて基本ありません

結局のところ、人生の満足度の最大化という観点からは、能力云々よりも、毎日充実感を持って、楽しく生きることが最重要ではないかと思います。最近読んだ本で、「年収90万円で東京ハッピーライフ」というのがありましたが、タイトルにもある通り、頑張って沢山働いて沢山消費するだけが人生じゃないという、一つの生き方を提示する良い内容でした。

5.まとめ ─とあるMVの紹介

Tempalayというアーティストの「そなちね」という曲のMVがあります。

https://www.youtube.com/watch?v=Aa5onMizfco

出だしは気持ち悪い感じの曲調で、MVも陰鬱なシーンが続きます。
ところが、主人公の少年が、夏休みの自由研究の題材に「人は死んだら宇宙になる」という荒唐無稽な仮説を立て、銃を自作して自殺することでその仮説を検証しようと決意した途端、曲調・MVともに、ビックリするぐらい美しく変化します。

このMVの佐々木プロデューサーはこんなメッセージを込めたと言います。

「どんな街に生まれてもどんな境遇でも、自分の世界に入り込めるやつは美しい」

自身の生まれた境遇がどうであれ、能力と呼べるものがあろうともなかろうとも、一度限りの人生の効用最大化に努めることが一番重要なこと。
改めてそう思いました。

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