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Chapter:40

モノ作りする上で邪魔だなぁと思うもの

長年モノ作り・作家をやっていると、自分とはかけ離れたイメージをつけられることがある。
私の場合、作家として表に出る時は「作家の顔」をします。
実際の私じゃ出来ない行動や発言が、顔を作ることで出来るからです。
出掛ける時は「この人何やってる人だろう?」と思わせるファッションにしてるし、話し方も変えてる。
「詠」という「作家」の生き方を見せる為に。
SNSも書くことがそれぞれの場で違う。
Instagramは作品アップと自分の中での統計を取る為だし、Twitterは自分がいいと思ったアートの紹介や、日常の呟きとか。
その時々で色々な顔を出来る人なので、自分でもどれが本当の自分なのか分からなくなる位、色々な顔がある。
私としてはそうやって固定したイメージをつけられない様にしていても、人はイメージをつけたがるのだなぁと思う場面が沢山あります。

例えばこんな感じ。

花写真=癒し=優しい人

現実は、撮ってる時は何も考えていない、寧ろ癒しの1枚なんか狙ってもいない、優しくないし寧ろ気紛れの極み


花写真=花に詳しい

現実は、花を買う時も花に呼ばれて買うから名前なんて見ないし、覚えようとも思ってない


これは極一部だけど、人が思うイメージと真逆をいってるし、物凄く面倒臭がりだし、物凄く気紛れです。

これがいざ制作に入る時なんか邪魔で邪魔で仕方がなくなることが往々にしてある。
生きてる中で自分にとって分岐点になる様なことが起こって考えが変わったとする。
それらが日常で滲み出るのは当たり前だと思うのだが、ここぞとばかりに、

「詠ちゃん変わった・・・」
「前のが良かった・・・」

と、よく言われる。
接し方も変えられることもよくある。
ちょっと待ってくれ・・・考えとか行動が変わってはダメなの?
作家ですよ?モノを生み出す人間が変わっていかなきゃ新しいモノは出てこないんだよ?
そもそも何を求めてるの?

一途に1つのモノを探求していく作家、自分ワールドを確立した作家、色んな作家がいる。
私みたいに時期をずらしながら出来るモノをローテーションの様に回したり、いきなりジャンルが変わったモノを出す作家もいていいじゃない?

私は常に新しいことをしたいし、人が見過ごしてるスペースに入り込んで居場所にしたいし、ギリギリを攻める様なことをしていたい人。


そういう「未来の可能性」として捉えてくれる人はいないのだろうかとさえ思って、変わったと言われたことに涙が出てくること多々・・・。

そんなことが過去も今も沢山あって、いつの間にか私の原動力は、
「悔しさ」
になっている。
悔しさが原動力って作家としては哀しいことだと思ってる。
もっとゆったりした中でモノを生み出せたらどんなに楽になれるだろうって。

あと、作家は甘くみられることも追記しておきたい。
仲良くなったり付き合いが長くなったりすると、安くされたり、最悪報酬もない時がある。
プロだろうがアマチュアだろうが、モノを作る時間や行程は同じである。
私も過去、そういうので涙を飲んできたことが山程ある。
(私が最初から好意でプレゼントしたとか、オマケをつけたとかは別ね。)
これからアートの道へ進もうと思ってるタマゴ達の為にも、今まで一度でもそういう目に遭ったところは自分から近付かない様にしてるし、今後一切仕事を受けないと誓ってる。
日本のアートが成長しづらいのも、一定数こういう人達が居るからだと思うし、それを当然と受け入れている国民性だと痛感してる。
先日も私のインスタの海外のフォロワーさんとDMでやり取りした時も、同じ様なことを指摘していた。

こういうことを書くと離れていく人も出てくると思うけど、そんなことはどうでもいい。
コロナ禍でアートの道を寸断された人が沢山いるんだよ。
だから私の活動は、そういう人達を少しでも減らしたい、がテーマでもあるんだよ。






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