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【コダイ妄想】中大兄皇子と大海人皇子は血はつながってないよね?

こちらの妄想で上げた内容を1つ1つ説明していくシリーズ。

*本文に入る前に1つだけ注意書きをさせてください。
 私は天皇陛下を崇敬していますし、
 日本に今後も天皇制は必要だと思っています。
 ですのでこの記事は皇族ディスのための話ではなく、あくまでも古代史の私的推理です。

さて、シリーズ「万世一統を一刀両断」の一回目です。
上リンク記事の見出しの一つめ
天智と天武は兄弟ではなく義兄弟
についてお話しましょう。

ざっくりとした根拠は以下の通りです。

1母・宝皇女の出自や婚姻歴が怪しい。

宝皇女―後の皇極・斉明天皇です。
田村皇子(舒明天皇)に嫁ぎ、中大兄皇子・間人皇女・大海人皇子を産んだとされています。
が、実はその前に高向王という人と結婚し、二人の間には漢皇子という子がいたともいいます。
その高向王という人については全く詳細がわかっていません。
用明天皇の孫もしくは皇子、用明妃の再婚相手の田目皇子の子など諸説ありますが、謎の人です。

また、舒明の皇后であるにも関わらず、蘇我蝦夷との恋仲説も流布しています。
再婚は聖徳太子の母もしていますし、当時は現代同様にあまり気にすべきポイントではなかったのかもしれませんが、高向王はともかく、漢皇子という子供について所在が行方不明なのがおかしくはないでしょうか?
皇位についた人の子であるのに。
死亡説や、漢=大海人説などもありますね。

2父・田村皇子(舒明天皇)の皇位継承が怪しい。

舒明の父であり、宝皇女の祖父でもある「押坂彦人皇子」という人も謎の人です。
聖徳太子と同世代の皇子で、敏達天皇の子とされますが、推定として推古朝のはじめには亡くなっていたようです。(物部・蘇我の争いで亡くなった説もありますね)

押坂彦人という名から刑部氏が養育していたため莫大な資産があったという説もありますが、それだけで皇位を継げるほどにその時代の皇統が落ち着いていたとは思えません。
現に聖徳太子の子・山背王や蘇我蝦夷・入鹿、古人大兄などがバサバサとやられていく血生臭い時代のど真ん中です。
既に亡くなった皇子の子が皇位を次々と継いでいけるほどとは思えません。
蘇我も太子の血筋も潰えて他に皇族がいなかった?そうでしょうか?
むしろ高向王が用明の子か孫であったなら、高向王が継いだ方がすっきりします。
舒明は刑部氏をバックに、高向王を殺したのでしょうか?それならばまだ納得はいきますが、全くその影がないのはなぜでしょう?中大兄が政敵・蘇我親子を誅したことは「改新」と語り継がれているのに…。『日本書紀』のストーリーにそぐわなかったからでしょうか?

むしろここには古代史の中でも特筆すべき氏族「息長氏」の血統が押坂彦人に流れていたので、その血筋を絶やさないためであった…と考えれば良いのかもしれません。

(息長氏に関してはまた改めて…)

3中大兄の皇位継承の仕方が怪しい

これは古代史好きの皆様には今更の案件ですので手短に。
なぜ大化の改新後に即位しなかったのか?
なぜ母・皇極亡きあとにすぐに即位しなかったのか?

大化の頃にはまだ若かったから…と考えられたり、
白村江の戦いを理由にしたりしていますが、全く納得いきませんよね。


4中皇命=間人皇女だとしたらなぜ妹を即位させたか怪しい

「中大兄は妹である間人皇女と関係があった」
この説を初めて目にしたのは高校時代、里中満智子大先生の『天上の虹』においてでした。
失礼ながらフィクションと思っていたのですが、あるんですよね、そういう噂が。現代にまで続く噂ってすごいですよね(笑)。
甥&姪(孫)の大津皇子・大伯皇女も同様の関係が指摘されます。
どちらもそれを皇位継承と関連付けられているのが、興味深いですね。
「実の妹(姉)と関係を結ぶなんて皇位不適合だ」というわけです。

…逆にそれはその理由を持ち出すための後出しの可能性も感じます。
なぜならば、間人皇女が「中皇命」として、皇極と天智の間に即位をしたという説があるからです。

間人は孝徳妃でもあり、両親ともに天皇というものすごい人です。
確かに皇位を継いでいてもおかしくはありませんが…上記の理由が天智がすぐに皇位を継げなかった理由のひとつであるなら、間人にとっても同様ですよね。

やはり謎が謎を呼ぶのは、天智の即位までの空白です。


5軽皇子(孝徳)の即位&廃位と有間皇子を死なせなければならなかったことが怪しい

これも、天智即位の謎でもあるのですが、廃位に追いやるくらいなら即位させないんじゃない?ということです。
もしくは、傀儡として即位させるならば古人大兄で良かったんじゃない?とも思うのです。古人は天智の妃・倭皇女の父とされてますから。
(実はこの倭皇女も謎の方なのですが)

また、孝徳が難波を京としたことも「飛鳥から追いやった」とされていますが、そうでしょうか?

私は孝徳こそが、蘇我&聖徳太子の血脈を継ぐ、中大兄とは別の王朝の人だと思っています。
だからこそ、太子縁の難波を京にしたのではないでしょうか?
その根拠としては、孝徳は太子のつくった法を柱とした政策をしようとしていた節があちこちにあります。
ただの太子ファンがリスペクトでそんなことをするでしょうか?
そもそも諡号の「孝徳」も聖徳太子を偲ばせますよね。

また、若くして死を賜った有間皇子にはその死を悼む気持ちが語り継がれているのも、太子の血統を惜しんだのでは?と感じてしまうのです。
もしくは、悼み嘆き悲しむことで悪霊封じとしたのかもしれませんが…。

ちなみに、太子の子・山背王の死については有間皇子や後世の長屋王の死ほどの悲劇性が少なく、ただ大化の改新の動機付けに使われている感も多く、やはり太子の血筋は途絶えておらず、孝徳はその地であったのでは?と思うのです。


6舒明の皇子→古人大兄皇子・中大兄皇子・大海人皇子…呼び名が怪しい

「大兄」というのは、のちの「東宮(春宮)」のような、皇位継承者の呼び名であり称号でもあります。
舒明の皇子・古人は長子であり時の権力者であった蘇我蝦夷の姉妹が母であり、まさに「大兄」―次の天皇にふさわしい人でした。
で、あるのにも関わらず「中大兄」―次の大兄というような呼び名があったことが不自然ですし、他に類を見ません。
また、大海人は天智朝において「皇太弟」とされていますが「大兄」と呼ばれた記録はありません。
(天智の息子の大友皇子も「大兄皇子」と呼ばれた記録はありませんが、即位記録すら消された皇子ですので、大兄と呼ばれていたものの、その記録が消された可能性はあります)
そもそも「皇太子」という言葉は、天武以降(私の推測では不比等が持ち込んだ持統以降)に使われたものです。
…ということは、「大兄」という呼称が中大兄(もしくは大友皇子)で途絶えたのには意味がありそうです。

また、葛城皇子という名があったにも関わらず、中大兄という言わば称号名(ニックネーム的な)が有名になってしまった背景には、本来は葛城皇子が大兄(皇位継承者)ではなかったことを逆説的に示唆しているように感じずにはいられません。

また、大海人が氏族名(その屯倉となる地名)ではなく、種族名のような名を冠しているのも気になりますね。
屯倉が海部氏だった説もありますが、もしそうならば海部皇子と名乗ってしかりではないでしょうか?

詳しくは後日に譲りますが、大海人は九州の倭国出身の海人族の出だと推察します。

7中大兄の娘たちがいくらなんでも大海人に嫁ぎすぎで怪しい

当時は、叔父・姪の結婚は珍しくありませんでした。
兄妹であっても、母親が違えば結婚することが出来ました。
ですから、中大兄の皇女たちが大海人に嫁ぐことに不思議はありません、が、その人数が多すぎるのです。
大田皇女、鵜野讃良皇女、大江皇女、新田部皇女と四人です。
(大田は早逝してますが、それでも3人です)

これは政略結婚だとしか思えませんよね?
もし大海人がロリコン趣味だったとしても、次々に我が子を嫁がせるでしょうか?
記紀では、国つ神が天つ神などの外から来た権力者に娘を嫁がせる話が多く存在します。
…ということは…?


8万葉歌人・額田王…謎多き美女とされるが中大兄と大海人との関係が怪しい

よく壬申の乱の原因に「額田王との三角関係のもつれ」が取り沙汰されます。
その証左として上がるのが『万葉集』の歌です。
1つは天智が大和三山を詠ったもの、もうひとつは薬狩りの大海人と額田の相門歌です。

大和三山の歌については、特に自分たちを示唆する言葉が添えられているわけではありませんし、
額田と大海人の相門歌も、宴の場を盛り上げるための創作では?という説もあります。

そもそも、額田王という人物が十市皇女の母であり、万葉集にいくつかの歌を残す以外は謎の人なのです。
額田=絶世の美女説などは、後世に小野小町伝説などと入り混じったイメージとして発生したのかもしれません。

9中大兄の死に方が怪しい

中大兄は重病に伏し、「長子・大友ではなく、大海人に皇位を譲りたい」と気持ちを変えたが、大海人は固辞して出家し、吉野山中に隠棲した…
という話が有名ですが、これは創作ではないかという説があります。

まず、このエピソードが古人大兄のケースと同じであること。
(古人大兄も皇位を継ぐ意思がない表れとして、出家し、吉野に移ります←結局謀反をでっち上げられ殺害されますが)
この時代、「皇位の固辞」と「出家して吉野」がお約束だったのでしょうか?

もうひとつは、『扶桑略記』に天智の病死説の一説として以下のように記されていることです。

「一云 天皇駕馬 幸山階鄕 更無還御 永交山林 不知崩所
 只以履沓落處爲其山陵 以往諸皇不知因果 恒事殺害」
(異説として…天智天皇が山階(京都)に行ったあと、お帰りがなく、山の中で行方不明になり崩御された。くつが落ちていたのでそこを御陵とした。諸侯その因果を知らないので、殺害されたんじゃないかと思われる《意訳》)

この話は井沢元彦先生の『隠された帝』で脚光を浴びましたね。
もしこの説が本当であるとしたら…なぜ誰が天智を殺したのでしょう?
…今までは殺した相手が次の天皇という流れですが…?

10壬申の乱で大海人に伊賀や尾張、旧物部氏が味方したのが怪しい

壬申の乱で大海人と戦った大友皇子は伊賀皇子とも呼ばれ、伊賀出身であったといいます。
…本当でしょうか?
伊賀は大海人に味方したことが記録されています。

そして大友皇子は千葉に逃れた説があったり、神奈川県に大友の墓だと伝わる場所があったりします。
この「実は生きていた説」は、義経=チンギスハン説のように「生きててほしかった」という英雄によく見られます。
明智光秀も近年は「悪人ではなかった」と言われていますが、天海法師説がありますよね。
大友もまた生存説があるほどに慕われていたのではないでしょうか?

また、尾張も大海人の味方をしていますが、尾張氏は海部氏と同族で海神を祖神とするとも言われています。
海人族つながり。
大海人も海人族出身ではないでしょうか?(屯倉が海部氏だと言われていますが)

壬申の乱は飛鳥朝廷を倭国の王大海人が滅ぼした戦いだったのではないでしょうか?


以上。


いかがだったでしょうか?
異論反論大歓迎ですので、よろしかったらコメントをお寄せくださいませ!
あくまでも「妄想」ですので、その点は悪しからずご了承くださいませ。

*今日のTOP写真はダッフィー船長さんのダッフィーさんと出会った時に
 許可をとって撮影をさせていただきました♪
 天皇陛下の袍衣で大嘗宮の前にて。

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