知識と技能の関係に関する考察

知識を、だれかが聞いてすぐに理解できるもの、技能を、聞いてもすぐに理解できず、マスターには自助努力のいるものとしよう。

技能は、ある二人が互いに習得している場合、その二人の間で知識としてやりとりすることができる。暗黙の了解があるというわけだ。

発話者が知識と思うことについて、受け取り手にとり、それは技能であることがある。この場合にコミュニケーションロスが発生する。よく起こるのが、発話者は日本語の能力が足りないなどと決めつけられることにつながる。
解決するには、受け手が察する、技能を習得する、あるいは、発話者が技能を知識と見せかけるために、結論だけを簡潔に説明するなどが必要になるだろう。

発話者が、技能と思うことについて、受けては知識、あるいはマスター済み技能であればコミュニケーションがうまくいく。

世の中には、このような知識と、技能が氾濫しており、誰にとってなにが技能、知識なのか定まらないことは多々ある。

人と本の間にもこの構造が隠されている。本を発話者とすればよく、ある事柄がわからないとき、それが技能である場合があるのだ。この場合読んだり調べたりしただけでは理解が及ばない。


世の中の知とは、技能と知識の折り重なったものの集積であると思う今日この頃。

私が思う秀才とは、この構造を見抜き、いち早く時間のかかるであろう技能の習得に執着した人である。

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