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他者否定は自己否定?


これは全部の場面にあたるわけではありません。
そこまで極端に考えてはいませんが、
多くの場面でこう言えるんじゃないかと思うんです。

他者否定は、一種の自己否定なんじゃないかと。

なぜそう思ったのか書いていこうと思います。


人は興味がなければ、視界に入らない。
認識することができない。
視界に入っていても、認識できない例なんて挙げるとキリがない。

イチローは言った。
「嫌われるとゾクゾクする。少なくとも僕のことを意識してくれてるってことですよね?」


どのような場合に他者を否定しようとするのか。

3つに絞ってみる。


自分の信念と異なる場合
(自分の信念に確信がない場合)

こうすべきだ!
この方がいいに決まっている!

それが強い人は他者を否定しやすいと思う。

かつ、自分の信念に確信が持てていない時、自他との境界が不明瞭になり、他者を否定することによって、自分の輪郭をはっきりさせようとする。

自分に確信が持てている場合、相手が違うとしても、否定するまではいかない。

そういう人もいるよね。

で終わる。

ここで言う「確信」とは、
疑いなく信じていること。
自分の思いと実世界での体験が一致していること。 
を指すように使う。

確信を持てていない自分を認識できない、
もしくは無意識に認めたくない場合、
それは他者への否定へと転換される。

もしかすると、その信念は
自分が出たものではなく、
他者からもらった場合も確信が持てない要因となる。

人は他者よりも優れていたいし、
人の知らないことを知りたいし、
それを発信したいと思う。

だからこそ、
自分から出ていない信念を持ちかねない。

その信念と、自分の本当の思いとの距離感が遠いほど、確信を持つことは難しくなる。

自分の実世界での実感や体験を伴った知恵ではなく、知識として、音として鼓膜を揺らしただけだから。

その場合、強い他者否定に走りやすいと思う。


嫉妬、憧れ

人は叶いもしない夢や未来を想い続けられるほど強くはない。

それができる人もいるけど、稀だと思う。

そういう人は、成し遂げている人を見てどう思うか。

遠回しに、自分の未来を否定する。

そんな自分を認識するには、強さがいる。

そうできないから、責任を全て他人に求める。

お前が悪いから、批判している、否定していると考える。
そうすれば、自分と向き合わずに済むから。

みな心のどこかに持つ感情だと思う。

だけど、この感情を持たない人がいる。

憧れを見て、「どうすれば、あの人に近づけるのだろう」と思う人。

丸々その憧れにならずとも、近づけるのなら今の自分よりは、良い自分になれるのは間違いない。

これができる人は、他者との比較をしない。

自分の中でのみ、比較をしている。

そんな人は他者否定をしない。


自分と似た部分がある
(認めたくない自分)

自己否定をするのは辛い。
自傷行為に近い。
自分の中でうるさいものがある。
そうする場合どうするか。

それを他者の中に見出すようにする。

そうすれば、自分の中ではうるさくない。

だから、自分と似ている人、しかも、その似ている部分が好きな部分じゃない認めたくない部分なら、それを否定する。

そうすると、形式上は自己否定にはならない。

でも、実際は、自分をありのまま認められないことが影響している。

そんな自分もあるよね。

ありだよね。

色んな自分があってもいい。

そう思えない人は、他者否定をすることで、自己を保とうとする。

そして、そんな自分を認識することもできない。

人に言われても分からない。

認めたくなくて、そうなるのだから、そりゃそうだろうなとも思う。

よくよく観察してみると、自分との精神的距離感が近いものほど攻撃している人もよく見る。

それは、自分との会話がなかなか難しいだからだろうと、勝手に思っている。




3つ考えてみました。

自分の信念と異なる時
嫉妬、憧れ
自分と似ている時

そんな時に人は強い他者否定をするように思います。

でも実は、その根底には

自分を肯定できない、自分を認めてあげられない、自分と会話ができない

という自己否定が生んでるんじゃないかと思うんです。

あなたはどう思いますか??

ご意見いただけると嬉しいです。

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