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人生エクストラモード

こんばんは。
先週、自宅に戻りまして。ぼつぼつとそれなりに、毎日を過ごしています。

自分の家というものは、自分が過ごしやすいようにできているので、とても過ごしやすい。
やることは、実家にいる時の何倍もあるはずなのに、料理も洗濯も掃除も、そこそこ楽しくできていて、日々のルーティンが気晴らしになっている感じです。家事が好きなんですよね。


自分で自分に追い込みをかける

私って、多分、自分を追い込むことが得意なんですよね。
よく言えば限界まで頑張れる、悪く言えば無意識に自分を破壊しているので、全然良いことでは無いのですが。

それでも多少前向きに聞こえる言い方をするのならば、『自分に厳しい』になるのでしょうか。

年を明けてから、私を取り巻く支援体制みたいなものが整い、心機一転。
施設にもう一度行こうとしてみたり、やっぱり行けなかったり、いっそ契約を解除して身軽になってみたり、新しい施設を考えてみたり。

今思い返せば、色々なことが目まぐるしく動いたので、2月は体調を壊して当然だったかもしれません。

気持ちがついていかないまま、決断ばかり迫られて。
私の基本スタンスは、願わなければ、少なくとも叶うことはない、みたいな。分かりやすく言うと、自分が行動を起こさなければ、何も変わらないって感じです。

迷っている自分・足踏みしている自分を乗り越えて、『選択』という行動を取らなければ、自分も環境も変えられない。
だから、自分の気持ちが追いつかないまま、自分が自分に、決断ばかりを迫っていました。


自分に対してのみ理不尽

努力できない自分、頑張れない自分、中途半端に投げ出す自分を、許し認めることができない。
簡単にバランスの崩れるような脆い心身は、いつか努力で克服しなければいけない。

何より、社会のレールから外れた生活をしている自分を許せないし、きっと社会からも許されないという視線を向けられる。向けられて当然。
下を向いて歩いて、上を向いて努力し続けなければいけない。

趣味でさえ頑張れない自分、好きなことに没頭できない自分には、あらゆることを楽しむ才能が著しく欠如している。
生きる才能が無い。

やりたいことがやりたい。
努力してやりたいことができないのならば、そんな自分に生きる価値はない。

生きているだけでしんどくなる自分に、この先、生きていける自信がない。

なんて思考が、私の心をがんじがらめにしています。
いつでも、どこでも、誰といても、何をしていても。
その瞬間、どれだけ幸せで楽しいとしても、その全てを相殺する勢いで、そういうどす黒い思考が私の心に沸き続けています。

最早、自分に厳しいってレベルではなく、自分に対してのみ理不尽って感じです。

仮に、自分と全く同じ状況の他人が近くにいたとしたら、手の届く範囲のことを、少しながらもコツコツ頑張ってる!えらい!って、思うと思います。
それが自分になっただけで、生きている価値が無いゴミ、努力しろやカス、みたいな扱いになるわけです。ひぇぇ。

挙げ句の果てには、今の自分がこんなふうになっているのは、自分が頑張れなかったからとか、逃げたからとか、厳しさが足りないとか。
まともに生きている人はもっと頑張ってるとか、自分はその努力を怠った怠け者だとか。
そういうふうに思っていないこともない。

先述した私のスタンス的にも、自分が何かしなければ人生は変わらないと思っているので、今の状況は自分が招いたとも考えられるわけで。

巡り合いとか偶然とか、運が悪かったとか、仕方がないとか、どうしようもなかったとか。そういう言い訳は確かに、できると思いますが。
私は、その場その時で精一杯生きていたのでしょうけれど。今思えば、もっと頑張れたとか、自分に対して甘かったとか、多少ラクをしようという気持ちがあったとか。
私も人間ですから、それくらいの思い当たる節はあるわけです。

あのちょっとのズルい気持ちの積み重ねで、自分はダメになったんだ、みたいな。

まあ、すごく現実的に、客観的に考えたら。
中学も高校も病気していたし、当時の母はそういう私にあまり理解がなく、母は必要以上に消耗して、私は必要以上に我慢せざるを得なかったし。
限界まで我慢するのが当たり前のようになってしまった背景には、身近に理解してくれる人がいなかったから、助けを求めても無駄だと思い込んでしまったのがあるかもしれない。

私は決して、私だけで生きているわけでも、成り立っているわけでもありませんから、自分がどれだけ頑張っても、本当にどうにもならないことは本当にどうにもなりません。力の及ばないことというものは、当たり前のように存在します。

それでも私が、色々なことの原因を自分に求めるのは、自分の中で結論を見つけてスッキリしたいとか、自分の中で誰かを悪者にしたくないとか。
この先同じことが起こったとして、同じ失敗をしないために、自分を変えたいとか。
そういう理由があります。多分。


つらチェック

ところで、帰省前にごたごたがあった時。
なんとなく、これといった理由はないけれど猛烈に死にたくなって。

まあ細かいことはいいとして。
支援員さんに、『死にトリ』というサイトを紹介されました。

そこに、自分の死にたい気持ちは、何で構成されているんだろう?みたいな感じで。
『死にたい』の『トリセツ』を作ってくれるところがあります。

私の結果はこんな感じ。
人生ハードモード。

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ざっと読んだだけでも、私の死にたいの正体が、『理想の高さ』だったり、『〜なければ』という脅迫的な感情だったりってのは、すごくしっくり。

今日の記事は、特別そういう色を濃くかいたので、出来過ぎのように見えるかもしれませんが。
実際、日常的に、無意識になんとなく自分を追い込んで生活しているので、先述した気持ちがずっと沸き続けているのは嘘ではありませんよ。マジで。切実に。


だが、あまり自覚はない

気持ち的に、「思ってるなぁ」とか「考えているなぁ」という自覚はあるんです。

でも、それが自分を追い込んでるとか、自分を締め付けてるとか、苦しめてるとか、そういう自覚はあまり、というかほとんどありません。皆無に近い。

自分が持ってる理想が高い、という自覚はあります。
でも、いくら高いとはいえ、努力すればいずれ到達できる範疇、到達できなければ努力が足りない、と思っています。

そういう、無自覚な追い込みと、無自覚な我慢の繰り返しで、懲りずに何度も心身に無理が生じる、の、これまた繰り返し。

よく、理想と現実の擦り合わせができていないと、上手くいかないことだらけでしんどくなる、って話は聞きますけど。
無意識で自分が感じていることと、意識して自分が感じていることの擦り合わせも、できていないとしんどくなるんだなぁ、と、体験談。

加えて、後者の方が、自分で修正がかけにくいとも思います。体験談。
最近になって、支援の輪がちゃんとできてから、「自分に厳しいですね」と言われることが増えたり、死にトリの結果を読んだりしてやっと、無意識に自分を追い込んで、無意識にそれを我慢して、よく分からないけどしんどくなる、を繰り返しているんじゃないか?という結論みたいなところに辿り着きました。

というか、むしろ、私は自分に優しいと思っていました。
医者にも救急隊にも警察にも、働けないと言われたから、働けない自分の言い訳にしていました。
今は働かなくてもいいとか、将来働けるように頑張ればいいとか、そういう風に、自分を甘やかしているつもりでした。

つもりとは言ったものの、本当に自分を甘やかしていると、少なくとも私の認識上は思っていました。

でも、これは矛盾になるのですが、働かないとと焦っている自分、自分を追い込む自分がいたのも確かで。
おそらく実際は、甘やかす自分よりも、焦ったり追い込んだりしてる自分の方が圧倒的に強かったのだと思います。

そういう、無意識の思いの強さを、上手に測れていなかった感。

だいぶ時間はかかってしまいましたが、1年とかそのレベルで時間を費やしてしまいましたが。
今気づけただけ良かった、のかもしれない。


文章の密度(丁寧さ的なもの)が、ちぐはぐな記事になってしまいました。

正直、今はどちらかというと心の調子が良いので、ブルーなことをかくのは難しい時期だったのかもしれません。(ちなみに、身体の調子は下降気味)
ただ、この記事は、いつでも無意識にぼんやり思っていることと向き合いたいなと思ってかいたので、むしろ、今かけて良かったなぁと思います。

落ち込んだ時は、落ち込んだ時の気持ちとか状況とかの整理をつけるために、記事をかくことが多いですからね。

これからもぼつぼつと、かき続けていきます。
気が向いたら読みにきてください。

よろしければ、サポートよろしくお願いします。 社会復帰に使う、なんて言いながら、きっと、私の人生を彩って、これからもnoteで言葉を紡ぎ続けるために使います。