未来に向けて

こんにちは。

今日は珍しく、用事が入っていたので出かけました。
その上珍しく、天気は晴れ。

自分って、晴れ女だなぁなんて思った1日です。


療養生活の延長

市役所へ行ってきたのです。
生活保護のケースワーカー(CW)さんから、お話しできないかと声をかけられて。

CWさんとしては、自立に向けての行動を促したかったようです。
就職、というのは難しかったとしても、障害者手帳を持っていますから作業所に通うだとか。

けれど、本当に優しいCWさんで。
今までの状態から、まだその段階にいくには早すぎるのではないか?と感じていらっしゃったようです。

実際主治医とは、コロナの影響や生活習慣のことも踏まえて、もう少しゆっくり考えていこうみたいな話をしていますし。
実家にいる母とも、焦らずにやっていこうと話していますし。
私個人としても、せめて、ちょうど半年後の誕生日くらいまでは平穏に過ごしたいと思っていますし。

完全に甘えではあるのですが、もう少し療養生活を続けていこうという結論にまとまりました。

感謝です。


あと半年で二十歳、ですか

先ほど「ちょうど半年後の誕生日」と言いましたが、本当にちょうど半年後が誕生日なのです。

1月23日

今日は本来、なんでもない日のはずなのですけれど。
こうして偶然が重なると、何か特別な、運命的なものを感じますね。

小さい頃は、永遠に訪れることがないだろうって思うくらい、遠くて届かないもので、永遠の憧れだと思っていたのに。
いざ目前に控えると、足踏みしたくなります。

というのも。
小さい頃の私は、自分の未来がこうであることを望んでいなかったでしょう。

大学生をしているだとか、働いているだとか、そういうものを夢見ていたはずです。

だって、周りにいる大人は、ほとんど誰しも、そうだったからです。


Irony

私は、今の自分の生活に満足しています。
だって、相応の贅沢をして、生きていけるのですから。

しかしまあ、それって、甘んじているだけなのですがね。

夢も、希望も、理想も、ちゃんとあります。
ありふれた幸せを手にする未来を思い描いていますし、やってみたい職業はありますし、それらを手にするための自分という虚像を描いてもいます。

けれど、どうせ叶わないと、願っても無駄だと、夢見ても無駄だと、諦めているのです。
なんとかして、諦めさせているのです。現状に、納得させているのです。

私は臆病者ですから。

何かを手にして幸せになれるとしても、それにより失うものがあるのなら、なにも求めなければいい。

期待しなければ、落胆しない。信じなければ、裏切られない。

そんな、当然でありながらも、人間であるからこその幸せを放棄しているような考えが、私の中にはあります。
一種の自衛、逃避です。


生き方を選べる

私は、いえ私だけでなく誰だって。
どのように生きるかを選ぶことができます。

何を『幸せ』だと思うか、何を『嫌だ』と思うか。それらを線引きすることもまた、個々人の自由であり、それぞれの生き方に繋がるのだと思います。

私は、『人間であるからこその幸せを放棄している』と述べました。

実際、本当に放棄し切れているかどうかは別として。
自分を守りたいがために、自分以外の何かをたくさん犠牲にしている自覚があります。

『自分以外の何か』を犠牲にしているつもりが、結局は自分の大切なものも犠牲にしているという自覚もあります。


これが本当に、私の望んだ生き方、なのですか?


私の歩んできた道

私が小さかった頃。
そうですね、保育園に通っていた頃、4歳や5歳の頃、世界の何もかもが輝いて見えた頃。

あの頃の私が描いていた『自分の未来』というものは、一体なんだったのでしょうか。

夢物語、なのは当然でしょうけれど。
どうして過去に描けたものが、今は描けなくなってしまったのでしょうね。

これも成長ですか? できなくなることが?
むしろ退化のように思えます。

夢を見て生き続けたかったわけではありません。
結局現実は、どう足掻いても現実でしかないので、遅かれ早かれ現実を見ることにはなったでしょう。

私が思うのは、描いていた未来に向かって歩いていたはずなのに、どうしてここまで逸れた地にたどり着いてしまったのか、ということです。

まあ確かに、計算外はたくさんありましたが。
多少計算が狂っただけで、堅実に歩んでいた人間がここまで堕ちるものなのかと、ね。

堅実に歩んだのはただのつもりで、実際はそうではなかったのでしょう。


せめて後悔をしたい

今の私に対して、思うところはたくさんあります。
いくら恨んでも憎んでも怒っても、足りません。一生そうし続けても満足のいくことはないでしょう。

けれども、後悔というものはほとんどないのですよね。

失礼な言い方をすれば、今の自分の人生は、確かに自分が決めて、歩んできたものですけれど。
自分にはどうにもならないことが多すぎたのです。

自分の周りの人間・環境などに、一方的に振り回され続けたことが多すぎるのです。

だから、後悔のしどころが分からないのです。
いつだって私は、その場その時の最善の選択をしてきましたから、それ以上にできたことはないと思います、本当に。

せめて後悔することができたのなら、それをこれからを生きるバネにするだとか、同じ失敗を繰り返さないように心に留めておくだとか、できたと思います。
生きる上での“何か“に変えて、消化することができたはずなのです。

それすらもできない。させてくれない。
誰のせいでもないのだから、誰も責められない。

しかし私は確かに、たくさん傷ついている。
なかなか癒えない。きっと、一生抱えていくしかない。

ただただ、やるせないです。

本当に、何もかもをなかったこととして、新たな人生を始めるくらいしないと、どうしようもないのです。


私は、どこを歩いているの?

そうやって考えてしまうと、自分が救いようのない、哀れで痛ましくてかわいそうな人間のように思えてしまいます。

そんなはずはないと信じて生きています。

けれどもやはり、事実は事実なんですよね。
ここでいう『事実』とは、『自分ではどうにもならなかったこと』を指しています。

そんなにどうしようもないことだらけの中、限られた選択肢の中から最善を選んできた私。
それって本当に、『私の人生を歩んできた』と言えるのでしょうか、ね。

家庭の事情に振り回されたことも、そこから派生する色々に振り回されたことも、確かに私の人生の一環です。
けれど、何かに振り回されることなくもう少し自由に生きてきた人も、振り回されたとしても呪縛のように後から病気になることのない人も、たくさんいると思うのです。

そういう人たちに比べれば、私はやはり自分の人生を歩めていなかったと、認めざるを得ないというか。

嫉妬ではないですよ?
ただ、同じ括りにはなれないなと考えているだけです。

もっというと、同じ括りとされてしまうと、私だけが一方的に生き難くなるのでやめて欲しい、とも考えているかもしれないです。

そうまで思ってしまうくらい、私は自分の人生に、どこか納得がいかないのでしょうね。


仕方ないで、どこまで片付けるべきなのか

現実は変わらない。

私がどう考えようが、どう思おうが、現実をどう受け止めようが、ここで何を書こうが。
それに対して誰かがどう考えようが、何を思おうが、どう受け止めようが。

現実は全く変わりません。良くも悪くもなりません。

いえ、時間は流れていきますから、何かしらがほんの少しずつは、変わるでしょう。
例えば、私の心の傷がゆっくりと癒えていき、病気が軽くなる、くらいのことはあるでしょう。

しかし、どう足掻いても結局はその程度に収まってしまうのです。

根本的に、過去の出来事が消えるだとか、私の心身が人並みになるだとか、そういう劇的なことは起こらないわけです。

最終的にそうなる、くらいのことはあるのかもしれませんけれども。
そうなるまでには、とてつもなく長い時間を要するのでしょう。


私は、今の私のまま、今を生き抜き、未来へと進んでいく方法を見つけるしかないのです。

受け止める、乗り越える、忘れる、諦める、切り離す…いろいろな方法があるとは思いますが、私の場合は『諦める』が適切かなと。

現実的ではなくてよければ、『切り離す』でもいいんですけどね。
色々と怖いことが起こるので、もうしません、多分。


どうにもならない現実に打ちのめされるのは、大人になってからで十分です。
若いうちにあまりに厚く、高く、硬い壁に、何度も出会ってしまっては、傷つくだけです。

若いうちというのは、それを乗り越える力も知恵も足りないのです。
聡く、狡く、そして強くなってからこそ、どうにもならないことと出会い、挫折を味わうべきでしょう。

少なくとも今の私は、そう思います。

もう少し大人になったら、それこそ半年経って二十歳になったら、違う考えになるのでしょうか。

ほんの少しだけ、楽しみに思います。

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