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世界は自分を中心に回っている
こんばんは。
今日はあまり調子がよく無い1日でしたね。
最近は、執筆に気が向くことが多くて、どこにも公開していない何のためにかいてるんだそもそも完成させる気があるのかという小説を書いていることが多かったのですが、今日は何となくそういう気分では無い。
小説をかきたいという気分ではなくて、かといって、何かをかかなければ何となく落ち着かない。
私は一体、何をかけばいいというのだ。
他人本位
そんな幸せな悩みのせいで途方に暮れていたところ、母から電話がかかってきました。
弟1号くんがすこぶる調子が悪くて、母が扱いあぐねている、というか。
こんな感じの状態はもう二年以上続いていて、外野の私からすればそろそろどうにかなってくれよといった感じなのですが、思春期ですからね。
世の中の大半のことは時間が過ぎれば必然的に解決せざるを得ないことだと思っていますが、その時間がどれも1日、1ヶ月、1年、そんな短期である保証はどこにもありません。
弟が抱えている問題ももしかしたら、時間に解決を委ねていれば実質的に無限の時間を要する問題だったりするのかもしれません。
今ここで、そんなことはどうでもよくて。
さて、弟はどうしてこんなにも長い間、悩み続けているのかというと、思考を放棄してしまっているからだと、私は思います。
悩んでいる時間は、とても苦しいものです。
何もかもが楽しく無いし、楽しいことをしていたとしても、辛い、苦しい、しんどい、そういう影がどこかでずっとチラつき続けているもの。
悩んでいる時間とは、そういうものです。私は嫌いですね。
それでも弟は、ずっと何かに悩み続けている。
それは本当に、悩み続けているのか。
先述した通り、私は、弟が悩み続けているのは、思考を放棄しているからだと思っています。
もっというと、自分についての思考を放棄しているからだと思っています。
弟は、自分以外の誰かについては、いろいろな考えを巡らせています。
何をして欲しいとか、どうなってくれたら嬉しいとか、こういう人がそばにいてくれたらとか。
それでいて、自分については何も考えていない。
自分は何をしたいのか、自分はどうなりたいのか、自分は誰といたいのか。
そういうことを、何も考えていないように思います。
全てが、不思議なくらいに他人本位なのです。
それは決して、他人を思い遣っているという意味ではなく、世界は自分を中心で回っているのに、他人本位なのです。
厳しい言い方をするならば、自分の意思がないのに、自分の心地好いように世界が流れて欲しいと思っている。
結果的に自分が気に食わなければ、それは自分にとって気に食わない世界になってしまう。
それじゃあ、生き難くても仕方がないでしょう、とね。
自分本位にならなければ
母は何度も「他人じゃないんだよ、自分なんだよ」と、弟に言っています。
聞いてるこちらも切なくなるくらいに、何度も何度も。
自分を変えていかなければいけないとか、自分の意識の問題だとか。
そういう、ありふれた意味合いです。
それでも根本的に他人本位な弟は、他人さえ変わってくれれば、誰かがこうしてくれさえすれば、自分は変わることができるという思考をシフトできずにいるようなんですよね。
なんていうか、すごくもどかしい。
弟はどんな在り方を望むのか
そう思っていてはいつまで経っても、自分は変わることができないし、自分の望むような交友関係を作ることはできない。
それはものすごくよく分かっているのですが、私としては、弟自身が自分に対し、どういう在り方を望んでいるのか?という、疑問というか、不安というか。
そういうものがあって、自分が変われと無闇に言うことができません。
そもそも、自分についての思考を放棄している弟は、自分の在り方なんて考えたことは1mmたりともないのかもしれませんけれど。
だとしても、自分の在り方を、自分で見つけてあげなくちゃ、自分だって周りだって適切な道を示すことができません。
自分は変わりたくない。
だったら、自分は変わらなくてもいいと思います。
その代わり、何があっても揺らぐことのない確たる自分というものが、実際の世界とどれくらい常識がずれていて、どれくらい常識に当てはまっているのかをしっかりと認知するべきだと思います。
自分は仮面をつけていたい。
だったら、自分は仮面をつけていればいいと思います。
その代わり、いつどこでどの仮面をつければいいのかという見極めがしっかりできるようになる必要があると思います。加えて、自分の本心に気づいてくれる人は少なくなるでしょうから、そういう部分のバランスの取り方を考え、対処する必要があるでしょう。
自分は溶け込んでいたい。
だったら、自分は溶け込んでいればいいと思います。
その代わり、都合よく流されてしまうことのないよう、自分の中での境界線をはっきり決めておいた方が良いでしょう。どこまでは許せて、どこまでが許せないのか、何が良いことでどこからは悪いことなのか、そういう境界線がはっきりしていないと、自分の中で鬱憤を溜め続けてしまうことになってしまいます。
ちなみに私は、変わり続けていたいです。
自分は飽き性ですから、自分が飽きないよう、いつでも、どこまでも、変化し続けていきたいです。
私は私のことを、あまり知らないと思います。だからこそ、いろいろな形に変わってみて、いろいろな自分になってみて、いろいろな角度から自分を見つめていたい。
周りからすれば、一貫性のない人になってしまうかもしれません。掴みどころがない、というよりかは、掴みにくい人だと思われてしまうこともあるでしょう。
だからこそ、人に近寄ってもらう側ではなく、人へ近寄っていく側でいようと、そこだけは揺るがない自分として持っていようと思っています。
自分以外の人生は生きることができない
思い遣りが大切とか、人のことを考えろとか、自己中心的になるなとか、決まり文句のように言われますけれども。
世界はどこまでいっても、自分を中心にしか回ってくれません。
毎朝目覚めれば、いつも私はよく知る私の体におさまっているし、私視点でしか世界を覗くことはできないし、自分の顔は鏡でしか見ることができない。
すごく哲学的な話になるのかもしれませんが、もしかしたら、他人なんて存在していないのかもしれない。
もしかしたら、自分の知っている世界、見ている世界、何もかも全てが、勝手に自分だけで描いている夢なのかもしれない。
他人がいて、他人に意思があるということを証明できる人は、きっとどこにもいない。
それでも当たり前のように、思い遣って、気遣いあって、当たり障りのないように生きていかなければいけない。
自分中心の世界なのに、です。
なんだかおかしな気がしてしまいますね。
だからこそ、自分の世界をどれだけ彩り豊かにできるかは、全て自分にかかっていると思います。
視野には限りがある。
生きることのできる時間にも、きっと限りがある。
死んだことがないので、それが本当かどうかは知りませんけれど。
せっかくなら、彩り豊かに華やかに生きたいですよね。
私はそう、思います。
よろしければ、サポートよろしくお願いします。 社会復帰に使う、なんて言いながら、きっと、私の人生を彩って、これからもnoteで言葉を紡ぎ続けるために使います。