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あいつ嫌いなんだ、好きになってよ。

こんにちは。

ここ数日、体調がとんでもないことになっているので、本日はこれから病院へいく予定。
解決するといいなぁ。


マイブーム

最近、アイナナにめちゃくちゃハマり込んでいて。
何がいいかって、都志見先生のかくシナリオですよ。

本当に、言葉選びがすごい。心の中に、自然と溶け込んで来て、救われることも刺さることも、温かい気持ちになってほっとすることも、寂しさに気づかされて不安になることもある。

まあ今日は、アイナナを見ていて考えさせられた『愛』についての記事をかいていこうと思います。


愛と孤独

愛がある限り、人は孤独だなぁ、って感じるようになりました。なんとなく。

誰かを愛したい人が、その誰かを見つけられなくても。誰かに愛されたい人が、その誰かを見つけられなくても。違う形で、同じように孤独を感じてしまう。

あるいは、愛が自分自身に向いて欲しいわけではなくて、自分の大切にするものや愛するものに向いてほしい人もいる。そういう人だって同じように、自分自身が愛されても孤独を感じてしまう。

その上、自分の求める愛でなければ重く感じるし、自分の愛に応えてもらえなければ、寂しく感じてしまう。
熱量もベクトルも、ピッタリと当てはまるものでなければしんどくなってしまうのだから、とても自分勝手。独りよがり。

常に、孤独と背中合わせな感情なんだなぁ、と思います。
そのくせ、愛がなければ生きていけないのだから、この上なく不便。


愛される努力

アイナナのストーリーの中で、こんなセリフがあります。

「君は愛されたいんだよ。でも、愛される努力はしたくないんだよ。
 そんな自分が恥ずかしいんだよ。」

作中では、「その言葉刺さらない人いる!?」と、別のキャラが言ってたくらい、刺さる人の多い言葉らしいのですが。
私は不思議と、あまり刺さらなかったんですよね。

なんていうか、愛されたいなら愛される努力をするのは当然だと思っているというか。何かを求めるなら、相応の代償を払って当然だと思っているというか。

無償で与えられるものなんてほとんどないし、何かを与えて返ってくることだって、保証されているわけではない。
少なくとも、欲しいものがあるなら、それを積極的に求めていかなければ、もらえる努力を見せなければ、手に入ることはない、と思っています。

だから、私にはあまり刺さらなかったのかもしれない。
でもそれって、よく考えたら、期待も信頼もしていないことの裏返しなのかなとも感じてしまいます。

無償で与えられるものはほとんどないのは確かですが、全くないわけではありません。私はあまりオススメしませんが、無償で与えられるものに期待することも、悪いことではないでしょう。

けれど私は、そこに期待することを初めから諦めていて、そういう意味では相手を全く信頼していないとも言えます。
どんなに大切な相手でも、自分が求めなければ、代償を払わなければ、何もくれないと、心のどこかでは思っている。代償を払ったとしても、必ずしも返ってくるとは限らないとも、思っている。

結構寂しい人間なのかもしれない。


愛の形

愛される努力をしました。相手から、愛が返ってきました。
でも、それで満たされる人って、あまりいないだろうなぁと思います。

求める愛の形、熱量とかベクトルとかそういうものが、自分の欲しているものでなければ、寂しさや不満を募らせるばかりだから。

自分の中にピッタリハマる愛の形が、確かにあるはずなのに、自分でさえそれがどんな形なのかが分からないんです。

分からないから、模索していくしかない。

何かを求めて求められて、応えて応えられて。それで、救われたり壊れたり、近付いたり離れたり。心を開いては閉じて、また開いては閉じて。
そういうことを繰り返して、より自分が愛されるように、自分が愛せる人生を生きていけるように、自分も相手も傷だらけになって生きていく。

寂しくない人なんていなくて、愛されたくない人だっていない。
ただただ、求める愛の形も、与えられる愛の形も、人それぞれで違うというだけ。お互いに、ピッタリとまでは行かずとも、それなりに当てはまる相手を探し続けているというだけ。

ただただ、それだけ。


愛される、最低限の努力

そろそろ、タイトルを回収して記事を締め括ろうと思います。
ここからは、グサリと刺さることをかくという自覚があります。お気をつけてお進みください。

自分の嫌いなケーキ屋さんを、自分の好きな人に勧める人はいません。
ケーキ屋さんじゃなくて、本やアニメ、ゲーム、なんでもいいです。

とにかく、ここで言いたいのは、自分の嫌いなものは誰かにお勧めしませんよね?ということです。

でも、自分の嫌いなものを愛して欲しいと願う人は、たくさんいると思います。
自分の嫌いなものが、『自分』という人たちです。

自分のことがあまり好きではない人は、思いの外たくさんいるでしょう。だからと、大衆の法則のような話をしたいわけではありませんが、おかしなことではないと思います。
自分を好きになることの難しさは、それなりに分かっているつもりです。私も、昔は自分が好きではなかったと思いますし。

でも、自分が好きではない人ほど、自分のことを愛して欲しい、好きになって欲しいと、感じてしまう気がするんですよね。
自分が好きになれない代わりに、誰かに好きになって欲しい、みたいな。
自分ができないことを、誰かが代わりにすることで埋めてもらいたい、みたいな。

嫌いなケーキ屋さんは勧めないのに、嫌いな自分は勧めてしまう。
自分で自分に価値を与えることができないから、誰かが好きと言って、誰かが愛してくれなくちゃ、自分の存在意義が分からなくなってしまう。

感情的には、すごく分かるんです。昔の私そのものだから。
でも、今の私なら、例えそれが罪のない感情だったとしても、どれだけ身勝手でどれだけ周りを振り回す感情かが、よく分かります。

だから、愛されるための『最低限の努力』として。
自分が自分を愛すること。自分が愛せる自分で在ること。

自信を持って、自分をお勧めできるようになって欲しいなと思います。
好きなケーキ屋さんみたいに、好きな本みたいに、好きなゲームみたいに。

あいつ嫌いなんだ、好きになってよ。じゃなくて。
あいつ好みなんだ、好きになってよ。って。

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