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幸せとかくれんぼ

こんばんは。

いよいよ梅雨、といった感じですね。
空も天気予報も雨ばかり。雨音は心地の良いものですから、気が滅入ったりはしないですが、こう何日も続かれると流石に、洗濯物の生乾き臭に悩まされますね。


そろそろ、連日投稿して10日

こうして毎日、とはいえ一昨日はつぶやきでしたが。(ずるい)
連日投稿をし続けて、そろそろ10日が過ぎました。

やってみると思いの外、できるものなのですね。
少しだけ、自分に関心です。

しかしまあ、毎日部屋に引きこもっている私が書けることって、そんなに多くないんですよ。

誰かと連絡をとっていたり、何か勉強していたりすれば、それなりの話題が用意できるのかもしれませんけれど。
生憎、話し相手は文鳥2匹ばかりの毎日。とても幸せです。


何もないからこそ、何かを見つける

私にとって、このように「何かを書かなければ」という状況って、良いことだと思うのですよね。

そりゃ、今日なんて特に、書くことが思いつかなくて「書くことがないこと」を記事にしてしまっているくらいですから、全くもって簡単でもラクでもないのですが。


私の日々というものは、ただ時が流れていくだけです。

大きな変化も、面白い刺激も、明日への期待も、自身の成長も、何一つ無い…というのは流石に言い過ぎですけれども。
みなさんが想像する以上には、凪いだ生活をしている自覚があります。

だからこそ鬱になりやすいと、考えられなくもありませんが。
変化も刺激も期待も成長も、一歩間違えれば『自分』というものを深く傷つける凶器になりますからね。

この生活・この生き方が、『最良』だとは思いませんが、『最善』だとは思います。


さて、そんな生活の中から毎日1つ、『記事になりそうなこと』を探すわけです。

思ったこと、考えたこと、何かしらのコンテンツから得たもの、その日にあったこと、したことなど。
幅は広いはずなのですが、思い返してみると何も思い当たらない日、あるいは私の世界に留めておきたい秘事ばかりの日が多いです。

秘事ってのは、小説で使いたいネタであることがほとんどですから、結果的にはいつか秘事ではなくなってしまうのですがね。


閑話休題。

私は別に、『記事になりそうなこと』であれば、面白くなくても、意味がなくても、価値がなくても、なんでもいいと思っています。

もちろん、面白いだとか、励みになったとか、そういう反応をいただけたり、いいねがたくさんもらえるのは嬉しいですが。
それ目当てで書いているわけではありません。

どちらかというと、自身の生活の中にかくれている『些細な出来事』というものを見逃したくない、という気持ちの方が強いかなと思います。


薬は飲み続けると耐性がつく

私は精神病の患者ですから、今は3種類のお薬を処方され、朝・昼・晩・就寝前の4回、毎日飲んでいます。

私の処方されているお薬の中で、最も効果が分かりやすいお薬は『睡眠薬』です。
睡眠薬ですから、飲めば眠くなります。

しかし、私が独特なのか、これが普通のことなのかは分かりませんけれど。
睡眠薬を2,3日続けて飲んで寝ると、ほとんど効かなくなります。

若干ぼーっとするような、頭が回らないなという気持ちにはなるのですが、眠気を感じることはありません。
少し疲れている時のような感覚に近いかもしれません。

ですから、睡眠薬は本当に眠れない時や、眠る必要のある時(次の日に用事があるだとか)にだけ飲むようにして、できる限り自然に眠る努力をしています。

…そうしていると、眠りにつけるのが朝の4時とか、今の時期だと空が明るくなり始める時間になってしまうのですけれど。


薬と同じように、というと語弊があるかもしれませんが。

人が感じる『幸せ』って、それが毎日続けば『普通』になってしまいます。

そして、自分の中での『幸せのハードル』というものがどんどん高くなっていき、ちょっとやそっとのことでは『幸せ』を感じにくくなってしまいます。

『幸せ』という薬に対して、耐性がついてしまうのです。

より大きな『幸せ』
より刺激的な『幸せ』
より多くの『幸せ』

いろいろなカタチの幸せを、いろいろなカタチで欲するようになります。
「心が渇いている」なんて気持ちは、そういうものなのかもしれません。

まあ、求めているものが『幸せ』であるとは限りませんけれど。


自分の水準

私だって、そういう自覚があります。

例えば私の生活水準、「これ以下の生活はしたく無い」と思う水準が、普通より高い自覚があります。(生活保護の身でやりくりできる範囲内ではありますけれど。)

携帯が欲しい、固定回線が欲しい、ゲームが欲しいなんてのは、本来は贅沢なので、少なくとも今の生活を送る上では我慢すべきことなのだろうと思います。

しかし、今まで「あって当然」の生活をしてきたのですから、今更それをなくすことはできないのです。

ジェネレーションギャップはあれど、どの年代にも「贅沢品なのは分かってるが、あって当然」と感じるものは、何かしら存在すると思います。

時代的に、エアコンなんてものは分かりやすい例の一つかもしれませんね。
(生活保護と絡めると特に。)


かくれんぼ

こうして毎日、何かを記事にしようと考えることで、自分の中の様々な価値観と、その正しい在り方を、冷静に見つめ直すことができる気がするのです。

そうやって見つめ直してみると、自分の生活の中には『発見』だとか『幸せ』だとか、たくさんのものが隠れているんだなって、改めて思い知らされます。
できるだけ、そういうものを取りこぼさないように生きているつもり、だったのですがね。


私の生き方は、常に、『かくれんぼ』です。

ありふれた日常の中にある『幸せ』と。
昨日とは違う今日の中にこそある『発見』や『出会い』と。
かつての自分と今の自分に見られる差異、『成長』と。

相手は不可視の”なにか”ばかりですけれど、ありふれた遊び『かくれんぼ』であることに変わりはありません。

記事を、日記を、小説を。
私は何かを”書くこと”で、『かくれんぼ』している仲間を探し出すことができます。

仲間たちは、自分の何気ない日常を彩ってくれたり、照らしてくれたりします。

ほらね?
幸せでしょ?って。


さいごに

こうして言葉にしてみると、何もない生活を送っている人でも、輝かしくて彩に満ちた生活をしているかのように見せることができますね。

言葉って恐ろしい。

しかし、『かくれんぼ』をしている気持ちが、全くないわけではないのです。(流石にそこまでお花畑にはなれませんけれど。)

だから、私は、幸せです。
毎日が、それなりの彩りと、それなりの光に満ちている、そう思うことができますし、実際そうなのだと信じています。


コロナショックから、徐々に回復しつつある社会ですけれど。
まだまだ元通りにならない人たちもいるかもしれません。

「心が渇いている」と感じている人が、まだまだ多いのかもしれません。

生活を変えることは難しいです。
しかし本来ならば、生活が変わってくれることなんて、滅多にありません。

変わってしまった生活に苦労している方は多いと思いますが、「元に戻そう」と考えるよりも、「次のステップに進もう」と考えた方が、いくらか気が楽になれるかと思います。

ですから、今の自分の日常と『かくれんぼ』をして欲しいのです。

今の生活ならではの”なにか”を、見つけてあげてください。
きっとそれは、あなたに見つけられるのを、待っていますから。

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