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壊れた期待
こんばんは。
最近の私は悪い子なので、だらけまくっていて、夜更かしもしています。
そうなる時って、体調が良くなかったり疲れたりしているけれど、意欲は死んでない、健康に疲労している時であることが多いです。
何もしないのは難しい、でも何かするのも難しい。
だから、遊びに走りがちです。
正しい頑張り方を知らない
私が明日からいきなりフルタイムで働いたら、遅くとも来月あたりには、救急車を呼ぶことになるでしょう。早ければ、働いて帰ってきた当日に、救急車のお世話になると思います。
自分で言うのもアレですが、結構、頑張り屋さんだなって思ってます。
本当になんでも、とりあえずやってみようって思います。前向きに。
実際やってみると、うまくいったりいかなかったり、得をしたり損をしたり、まあ色々あります。そこで「向いてないなぁ」ってなることもあるし、「もっと練習・勉強しよう」ってなることもあるし、余裕がないと「どうして私はこうなんだ!」って自分を責めることもあります。
責める割合が多いですね。
人に頼るべき時が分からなくて、自分がやるべき匙加減も分からなくて、一人で抱え込みがち、全てを自分のせいにしがちです。
加えて、自分がやると決めたら、あるいはやらざるを得ない状況になったら、私は私を壊すことに躊躇いがない。
それはもはや『頑張り』ではなくて、単なる『自己破壊』というか。
何か、できるようになるためとか上手くなるためとか、或いは人に認められるためとかお金を稼ぐためとか、目的があったはずなのに、それが見えなくなって、目の前の現実を凌ぐだけで精一杯になってしまう。
ぐっと視野が狭まって、自分を責めて、また視野が狭まって、真っ暗闇。
自分勝手
私は『自分勝手』を、『自分の感情に他者を巻き込むこと』と定義しています。
自分が「そう思う」からって、相手にもそう思ってもらえるとは限らないし、共感を期待されるとそれだけで閉塞感を感じますしね。
期待に応えるだけの人間関係は、とても窮屈なもの。ありのままの自分を見てくれる相手の方が、どうしたって付き合いやすい。
しかし、相手に対して「期待するな」というのもまた、自分の感情に相手を付き合わせる『自分勝手』な行為になってしまいます。
ならば全く別に、相手に対してなんの感情も向けない、所謂『無関心』ならば、お互い過ごしやすいのか?と言われたら、そういうわけでもないでしょう。
要するに、兼ね合いが大事。
どんな感情を、どれくらい向けるのか。
相手のキャパシティや性格的なものも関わってきますし、関係(親子、友人、恋人など)によっても、向ける感情が変わってきます。
例えば、親子の愛情は、恋人に向ける愛情とは全く別のものになります。また、子から親への愛情は、必ずしも必要だと、私は思いません。親から子への愛情は、産んだのだから最低限の責任として、一定量必要かなと考えています。双方向である必要はないし、同じだけの量がやり取りされる必要もないわけですね。
自分勝手の究極型
ところで、いくら『自分勝手』な人間だったとしても、倫理的、或いは社会的に、限界があります。
私が、誰かを憎んでいたとしても、友人に対して愚痴ばかりこぼしていたら、友人が離れていきます。いじめをすればいずれ怒られるでしょうし、ことによっては犯罪です。もっと極端に、相手を殺してしまったとすれば、これは流石に100%警察に捕まります。
どこまでいっても、社会規範の範疇である限り、私たちのできる『自分勝手』ってたかが知れていると思うんです。
その中でも最も自分勝手だなと思う、『自分勝手の究極系』って、『全てが自己完結していること』だと感じます。私なんですけどね。
最初と、言っていることが逆になっています。
最初に『自分勝手』とは『自分の感情に他者を巻き込むこと』と言っておきながら、『全てが自己完結している』って。
まあでも個人的に、矛盾はしていないと思っていて。
一応先ほど、期待という感情と同様に、「〜するな」という感情もまた自分勝手だと説明しました。結局のところ、兼ね合いが大切なのだ、とも。
その『兼ね合い』を拒絶していて、自分が誰かを付き合わせないようにすると同時に、誰かの感情にも付き合いませんよと、初めから宣言してしまっています。
せっかく、相手が歩み寄りを希望していても、私は一方的に拒絶してしまっているわけです。それで、勝手に孤独になる。馬鹿ですよね。
当たり前を前提にできない
私は、友人や恋人に、とても大切にされています。
たくさん愛されていて、思い遣られていて、本当に幸せで恵まれていると思います。親は少し不運でしたが、出会う人間関係にはものすごく恵まれました。
その人たちが、本音では「働けない私を迷惑だと思っていて、病気だと甘え続けている愚か者だ」なんて、思っているはずがありません。
ですが私は、そんな”当たり前”を、当たり前だと思えない。
一応断っておきますが、決して、そう思っていて欲しいわけではありません。もしも本当にそんな言葉をぶつけられたら、かなり落ち込むと思います。
根本的に、「私が大切にされるなんてあり得ない」と思っています。
そんな幸運はあり得ない。こんなに怠けていて、迷惑だけをかけていて、生きる粗大ゴミである私が、誰かに愛されるなんてあるはずがない。
だって、そんなことがあったら、頑張ってる人たちが馬鹿みたいじゃないか。って思ってしまう。
私はきっと、私のことが、心の底から大切にできないんです。
大切に”してもいいんだ”って、思うことさえできない。
だから私は、全てを『自己完結』させて、無理矢理にでも丸く収めるようになったのかなぁと思います。
こんな自分がプラスに評価されたら、誰かを馬鹿にしている気がして、罪悪感を感じてしまうから。そもそも、はなから他者から向けられる良いものに期待なんてしてはいけないと、自分に言い聞かせ続けてきたというか。
表現が難しいですね。
期待をしない人生
こうしてnoteで記事をかいても、Youtubeでゲーム動画を上げても、いいねや閲覧数に固執したことは、ほとんどありません。3年以上前、noteをかき始めた頃くらいかな、閲覧数を気にしていたのは。
そもそも、いいねや閲覧数が伸びることに、興味が無いんですね。
もっというと、私のかいた記事が、誰かに届くことも、届いた相手が読んでくれることも、読まれて評価してくれることも、何一つとして期待していません。
むしろ、届くはずがない、読まれるはずがない、評価されるはずがない、あってもなくても変わらないどころか、及ぼせるとしても悪影響くらいの、ゴミを量産している、くらいのつもりです。
自己肯定感が皆無なので、自分の持つ全てに、何の価値も意味も感じていません。価値や意味があると信じたいとは思っていますがね。
誰かに届いて、何かが伝わって、その人にとってプラスのものに変わればいいななって、奇跡を願ったりもします。
根本的に、とても虚しい人間なので、何に対しても無気力ですよ、私は。
何に対しても、『期待』という感情は、ほとんどありません。全てが絵空事、くらいのつもりでいます。
その分、いいねが付いた時は、ものすごく報われたような気がして、ほっとしたりします。ちゃんと嬉しいです。
自分は意味も価値もないと思っていたけれど、ちゃんと意味も価値もあったのかもしれないと、少しだけ思うことができる。
お金も評価も、興味がない
私が突然フルタイムで仕事をしたら、すぐに救急車のお世話になるというところから、今日のお話はスタートしました。
なぜなら、目的を見失って、凌ぐだけで精一杯になってしまうから。
そもそもとして、私は、お金や評価への執着が薄いのです。
当然ですよね。期待をしていないんですから。
相手に評価されるはずがないと思っているので、評価を求めて何かをすることはできません。どうでもいいことなので。
お金もある意味、仕事に対する評価の一種になります。あり得ない話ではありますが、私が仕事をしたところで、何の成果も上げられていないから給料は無しですと言われても、仕方がないくらいに思っています。私が何かをできるはずがないので。
自分にも、相手にも、何の期待もしていません。
もしかすると、興味がないとは少し違うかもしれませんね。
本当は欲しいと思っているけれど、自分があまりにも完璧に絶望的すぎて、諦め切ってしまっていると言った方が適切かも。
何にせよ、虚しいなという感想しかありません。
自分が自分を大切にできないのも、大切にしていいとさえ思えないのも、私の中ではとても自然なことのように感じます。
こればかりは、病的なものではなく、経験や性格からくる私の持ち味といってもいいかもしれません。どう言い換えたとしても、多少の不運が悪戯をしたことに変わりはありませんが。
今週も、疲れ気味なのでさっくり記事でした。
内容はあまり、軽くもないかもしれませんが。
それではまた来週。
よろしければ、サポートよろしくお願いします。 社会復帰に使う、なんて言いながら、きっと、私の人生を彩って、これからもnoteで言葉を紡ぎ続けるために使います。