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惨めだということ

私は比較的、幸せな方だと思っています。
不幸な中では、幸せな部類だと。

別に、自分の不幸を哀れんで欲しいわけでも、同情して欲しいわけでも、慰めて欲しいわけでもありません。

単純な事実として、一般的な『幸福』からは逸脱していることは確かでしょう。

『幸福』から逸脱しているからといって、『不幸』と決めつけるわけではありませんけれど。
まあ、その逸脱の仕方が『幸福』か『不幸』かと問われれば、間違いなく後者だということもまた、単純な事実だと思っています。


幸せの尺度は、人それぞれです。

人に幸せを求める人。仕事に幸せを求める人。
お金に幸せを求める人。時間に幸せを求める人。

経験に幸せを求める人。知識に幸せを求める人。
評価に幸せを求める人。

なんでもいいんです。自分が幸せを感じることさえできるのならば。


私は、ちょっとだけ、幸せに対して臆病になっているのかも知れません。

幸せになって、嬉しくなったり、楽しくなったりするのは、とても心地が良いです。

でも、現実的に、自分は何も変わっていなくて。

今日は、色々な書類の申請のため、久々に外へ出てみました。
ちょっとおしゃれをして、ちょっと市役所へ。だいぶ味気ないですね。

それでも、私としては、楽しいお出かけのつもりでした。
ちょっと体が痛むけど。ちょっと息切れも激しいけど。
それでも、楽しいお出かけのつもりでした。

外って、きらきら輝いているんです。
子どもを連れたお母さんに、授業終わりの学生さん、仕事中の社会人。

ええ、そうです。ありふれた人たちの姿です。
あまりにもありふれているから、それは幸せにすらなり得ないような、ありふれた幸せな人たちです。


シンデレラは、フェアリー・ゴッドマザーによって着飾られ、ガラスの靴を履いて、かぼちゃの馬車に乗って、パーティーへ向かいます。

そこだけを切り取れば、シンデレラ本人は何もしていないんです。
偶然に恵まれ、機会をものにして、プリンセスとなった。

しかし、どうしてプリンセスになれたのかと、逆から考えてみると、それはシンデレラの持つ心の美しさが、王子様に認められたから。

例え、意地悪な義姉たちが同じように着飾られ、ガラスの靴を履いて、かぼちゃの馬車に乗って、パーティーへ行ったとしても。
彼女たちの忘れていったガラスの靴は、ただの忘れ物として処分されたことでしょう。

内心の美しさが無いから。
シンデレラは、内心こそが何よりも誰よりも美しく、尊かったから。


今日の私は、義姉たちと同じでした。
外側だけ着飾って、何か良いことが起こるような気持ちになって、お出かけをして。

私が、私の生活が、何でできているのかを忘れて。
誰に生かされているのかを忘れて。

恩を忘れて。身分を忘れて。
下を向くことを忘れて、前を向いていた私。

どれだけ醜く、どれだけ恥知らずなことをしてしまったんだろうか、と。
何もできないくせに。何もしてないくせに。何も持たないくせに。
何一つとして、自分のものとして誇れるものなんかないくせに。

惨めって、こういうことなんだって、空虚になって、乾いてゆく心の中でそっと、静かに、思いました。そして乾いて、消えてゆく。


醜さとは、自分を知らないこと。
醜さとは、自分を語れないこと。
醜さとは、自分を晒せないこと。

醜さとは、自分にとっての自分が、空虚なこと。
シンデレラの、成り損ないさん。

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