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疲れた人に、省エネな生き方を

こんにちは。

先週後半から今週前半は、風邪をひいて喉が痛くて。納豆を食べると、喉がしみるという地獄の日々(?)でした。
まだ、若干喉の違和感が残っているというか、たんが絡む感じが残っていますが、痛みは引いてすっきり。

夏の風邪は長引くって言うような言わないような。
皆さんも気をつけてください。


エコモード

今日の記事は、話がひっちゃかめっちゃかしていると思います。

何故かって、記事をかこうと思ったはいいけれど、かきたいことが全く思い浮かばなくて。とりあえず出てきた言葉をつなげてみたような、道のりも終着点も決まってないままかき進めてしまったからです。

まあでも、なんというか。
結果的に、疲れた人におすすめしたいような記事になったような気がしています。

前半、おそらく何言ってんだこいつみたいな唐突さから、後半、突然省エネ人生語り出したこいつみたいな構成になっています。
とてもすみません。現在、私も省エネ運転中です。

グダグダな記事でも、最後までお付き合いいただけたら嬉しく思います。


自分の生き方

私は基本的に残念な人生を送っていますが、それについて後悔をすることはあまりありません。
後悔していたこともありますが、冷静に考えてみると、どうしようもないことの方が多く、今となっては後悔のしようがないと思っています。

元々の私は、誇張した表現をすると、悲劇の主人公気取りだったように思います。
自分が可哀想なのは自分のせいではなく、自分を取り巻く環境のせいだとか。自分にはどうにもならないことのせいで、自分はこうなってしまったんだとか。

それが、良くも悪くも『妥協』できるようになったのは、大きく二つの理由があったんじゃないかなぁと。すごく単純な理由。

一つは、ダサいこと。
それを言ってどうなるんだ?とか、自己顕示欲の塊みたいで気持ち悪いなって、客観的に見ることができるようになったからですね。

もう一つは、今と未来に真っ直ぐ向き合いたいと思えるようになったこと。
過去にすがってばかりだと、いつまで経っても進めません。何を言っても何をしても、過去は変えられないからこそ、未来で同じことをしないように今を生きたい、みたいな。

妥協と言うとちょっとマイナスな気がしますが、成長と言い換えれば少し前向きな感じがします。

私は私のこの変化を、結構気に入っています。今のところは。
気に入らなくなったら、自分が好きになれる自分へと、自分を変えていけばいい話。


どんなに不自由でも、何かしらの自由はある

私は今、どちらかというと不自由の方が多い生活をしていると思います。
心の病気を持っていて、保護を受けて生活している。毎食後にはお薬を飲まなければいけないし、通院もしなければいけない。
金銭的にも、精神的にも、豊かとは言い難い中で生きていると思います。

それでも、私は毎日着る服を選ぶことができますし、今日のご飯を何にするか選ぶこともできます。どこへ行って何をしていても、規則を守ってさえいれば何かを言われることはありません。
時間的な自由だけはこの世の誰よりも享受していると思います。まだ、仕事をしていませんからね。

分かりやすい行動だけでなく、なりたい自分へと変わることだって、私にとって『自由』の一つです。
私にとって、誰にも侵されたくない、一番護られたい自由の一つでもあります。

その自由さえ護られていれば、どんなに苦しい状況にいても笑い方を忘れることはないだろう、くらいに、心の底から大切に思っています。

何かに不自由を感じるということは、それだけ求める水準が高いということです。そして、その水準の高さが、自分のキャパに見合っていない証拠でもあると思っています。

私は、基本的に何もできない絵に描いたようなダメ人間なので、欲しい服を見つけた時に買うことも、外食をすることも、楽しい場所へ遊びに行くことも、ほとんどできません。
それでも。私は私の求めることができる自由を求め、不自由の中でも最大限自由に在ろうとしています。

一番不自由なのは、きっと、自分が求められる自由に気づくことができないことだろうと思います。
そりゃ、なんでも好き勝手に手が届くことに越したことはないかもしれませんが、欲しいものを一つ手に入れれば、欲しいものが一つ減るのは当然のこと。自分が飼い慣らすべき欲望に、自分が飼い慣らされてしまったら、大富豪になってもお姫様になっても、自分は不自由だ、なんて恵まれていないんだって言い続けることでしょう。

そんなに醜い生き方はない。


甘んじるという手段

私は、今の私にとって都合の良い生き方をしているというだけで。
それはつまり、恵まれていない中で満足する方法を模索した結果、今手が届く自由をたくさん掴む、という方法に落ち着いたということで。

見方を変えれば、これもまた一種の妥協、言い方を変えると、ただただ甘んじているということになります。
甘んじている限り、それ以上を目指そうという向上心が生まれることはない。
現状に満足することができてしまえば、現状を変えていく必要がありませんからね。向上心が消えるのは当然のことです。

でも、時として、『甘んじる』というのも一つの手段であることは、強く主張しておきたいなと思っています。
求めて求めて求め続けて、それでも手に入らなかったとき、痛々しいほどに前向きでいたって、どうにもならないことはやはり、どうにもならないから。

そういう時はいっそ甘んじて、それでいいやって投げやりになることは、一つの手段、一つの選択、一つの在り方として十分に正しいことだと思います。

求めるということは、それだけで、色々なものを浪費します。
落胆すれば心を、買えばお金を、追いかければ時間を。例え、求めたものが手に入って、喜んでも、満たされても、笑っても、嬉しくても、結局何かしらを浪費している。
究極的には、物々交換というか。何かを手に入れる代わりに、何かを失うのが求めるということ。手に入ったものがプラスでもマイナスでも、何かしらを失うことに変わりはない。

だったらいっそ、初めから求めなければいい、とも思います。
そうすれば、少なくとも、何かを失うことだけは避けられる。

そういう、省エネな生き方も、心が疲れた自分にとっては大切な時もあるでしょう。


自分以上は求めないかわりに

ちょっとくらいお話になってしまいましたね。
ここからは少し、無理やり前向きな話へと方向転換してみようと思います。

私はいつでも、自分を逸脱していきたいなぁ、なんて思い続けています。
それは省エネとは程遠い、厨二っぽい言い方をすれば、自分の究極を突き詰めていきたい、みたいな。熱意と向上心と夢と希望の塊みたいな感情を、それとなく持っています。

今の自分は、立って、手を伸ばして届く場所しか無理かもしれない。
でも、ジャンプすれば、ちょっと高いところなら手が届く。
踏み台を持ってくれば、もっと安全で安定的に、ちょっと高いところに手が届く。
脚立を持ってくれば、自分の身長よりもずっと高いところまで到達することができる。

そうやって、自分の在り方を少しずつ変えていけば、自分の手の届く範囲も、少しずつ変わっていくものです。

今日は手を伸ばすだけの自分。明日はジャンプをする自分。
明後日は疲れてるだろうから、椅子に座っている自分。
明々後日は踏み台を持ってきて、その次の日には踏み台に乗ってみよう。

もう、本当に、それくらいのゆっくりな変化でいいんです。
ただ、絶え間なく変わり続けてさえいれば、自分に飽きることもなければ、変われない自分に嫌気が差すこともない。

一日で変わるのが無理なら、三日かけて変わればいいし。
逆に、三日でできるとしても、一週間かけたっていいし。

人って、思ったより自由で、自分なら、思ったより簡単に変えることができて。
自分が何をしても、世界の方はこれっぽっちもも変わってくれませんが、自分が見える世界は簡単に変わってくれるということです。

自分以上は求めなくていいから、自分を変えることを恐れないで。
疲れた時には省エネで。疲れてない時も省エネで。

毎日が眩いものであふれますように。なんて。

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