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書けるようになりたい

こんばんは。

今日は、ちょっと気分が沈み気味です。

理由はなんとなく見当がついているのですが、些細なことです。

誰から見ても、もちろん私から見ても、本当に些細なことで、普通ならばどうでもいいようなことです。

こんなことで気分が沈むなんてって、自分でも呆れてしまいます。


『書く』ということ

ここ数日、連日投稿していると思います。

若干、自分の限界にチャレンジしている、という気持ちもあります。


私の生活において、『書く』という行為が4割くらいを占めていると思います。

毎日、必ず何かしらを書いています。

noteの記事であったり、小説や小説の設定であったり、日記であったり、心の整理のための殴り書きであったり。

私は『書く』ことに支えられていますし、『書く』ことは私にたくさんの発見をもたらしてくれます。


もちろん、私は『書く』ということが大好きだから、そうしているのです。

とても幸せなことに、『書く』ことに対してのトラウマはありません。

数少ない、私が苦しさを感じずにできることの一つなのです。


先ほど述べたとおり、私はいろいろなものを書いています。

そして、それらひとつひとつはどれも、同じ『書く』という行為なのに、全く別のもののように思うのです。


『記事を書く』ということ①

まず初めに、私がnoteを書くときのことについて。

noteはブログのようなものですから、誰かに見てもらうことを前提として書きます。

中身は、その日その時の気分だったり、前々から書こうと思っていた題材だったり、いろいろです。


私の場合は、まず『題名』を決めてから、その題名から想起できることを思いついた順に、ただただ書き連ねていくだけで記事が完成してしまいます。

ほとんどの場合、読み直しも推敲もせず、公開しています。

ですから、最終的にまとまりのない記事になることや、誤字脱字のあるままになってしまうこともたくさんあったと思います。


何故そういうスタンスでnoteを書いているかというと、考えて書いているとその時だからこその気持ちが上手く引き出せない気がするから、でしょうか。

読み直しや推敲をしないのも、似た理由です。
『良い文章』や『完成した文章』というものを公開しようとしてしまうと、書いたときの思考というものがバラバラになってしまったり、消えて全く別のものになってしまったり。

気軽に書いて、気軽に公開することのできる記事だからこそ、『その時の私』というものを一番重視しています。


『記事を書く』ということ②

私の書く記事は、日常のことや自分の気持ちや考えを書く場合と、何かを紹介する場合とがあると思います。

『Xyculture.』というマガジンでは、自分の趣味(アニメや音楽、ゲーム、本など)を紹介しています。


紹介する記事は、その記事を読んでもらうことよりも、おすすめしているものを手にして欲しいという気持ちが強いです。

見て欲しい、聴いて欲しい、やって欲しいなどなど。

『記事を読んでもらう』ということがゴールではなくて、記事を読んだことで『行動してもらう』ということがゴールです。


ですから、読み直して、全く知らない人が読んでも面白さの伝わるように、文を組み替えたり書き直したり。

印象的な部分を引用したり、公式サイトやAmazonのリンクを貼ったり。

あの手この手で、沼に引きずり込もうとしています。


ですから、自分のあれこれと何かの紹介を、同じボリュームの記事をかいたとすれば、圧倒的に後者の方が時間をかけてます。

紹介記事って難しい!


『日記を書く』ということ

ここ数日は、noteでの投稿が多くて、実は日記の分量が少なかったり、サボってたりしています。(おい)

でも、しばらく日記を書いていないと、なんとなく心の中がザワザワとします。

イライラしたり、泣きたくなったりすることもあります。

そうなった時は大抵、数ページみっちり文字まみれの日記を書いて、心の内を整理します。


私にとって、『日記を書く』ということは、『自分と向き合い、自分の心を整理整頓する』ということなのです。

私の日記は、『自分の悩みの正体をつかむ冒険記』でもあるかもしれません。


日記の利点といえば、自分が管理してさえいれば、誰かに見られることがないということです。

だから、誰にもいえない心のうちに秘めたことだって吐き出すことができます。

むしろ、そういうことを吐き出せる唯一の場所です。

吐き出しても誰にも見られないのだから、誰かから批判されることもなくて平和です。


強いていえば、過去の日記を読み直した時、今の自分が過去の自分を批判することはありますけれど。

もしそれができるのであれば、進歩しているというか、成長しているというか、むしろ褒めるべきことだと思いますし。

逆に、「ずっと前も似たようなことで悩んだ気がする」って時、日記を振り返ると突破口が見つかって助けられることもあります。

そう考えると、『自分の人生のガイドブック』にもなりますね。


日記って素敵。


『小説を書く』ということ

これで最後です。眠いし。

人様に自慢できるほどの作品ではありませんし、そもそもまだ完成すらしていないという。

それでも、『小説を書く』ということは、私の生活の一部になりつつあります。


書き始めたのはというか、構想を練り始めた時は確か、去年の8月ごろだったと思います。

小説として公開したのも、8月の半ばとか後半とか、それくらいじゃないかなぁ。(今は消してしまいましたが…。)

まだ1年にはなりませんが、それなりに長い付き合いではあるっぽい。


まあしかし、その間、本当にいろいろなことがありましたからね。

半年くらい、完全なるブランクがあると思います。

そのブランクを経て、3月末くらいからまともに取り組み直していたりいなかったり…。


いつ完成するか分からんものですけれども。

私にとって『小説を書く』ってことは、まず一つ目に『いろいろな世界の扉を叩くこと』かなと思います。

小説って、ただ書くだけでも、それなりのものは書けるんですよ。

自伝に近いものだったら、それこそ記事や日記の執筆と大差ない心構えで書くことができるのではないかなと思います。(あくまでも私は。)


ところで、私が今書いてる小説って、妖怪とか神様がででくるお話なんですよね。

世界観をイメージするためだとか、親近感が出るようにだとか、いろいろな目的で、いろいろなことを勉強しました。
各地で伝わる説話だとか、日本神話だとか、日本史だとか、神社神道についてだとか、本当にいろいろ。たくさん。

今でもし続けていますし、これからもずっとし続けると思います。

何かを学ぶと、知らなかった世界を一つずつ知っていって、何かに気づかされたり、価値観が変わったり。

そうすることで新しい世界へ、今いるより先の世界へと進むことができるのです。

成長できる、とも言えますね。


もう一つ。
私にとって『小説を書く』ってことは、『子育て』とも感じます。

『子』というのはもちろん、自分が生み出した小説世界の人物たちのことです。

先ほどは『小説世界』のために色々手を尽くしてるようなことを述べましたが、小説を書くうえで『人物』のためにも手を尽くしているのです。


今のところ完成させることができてないので、小説を書きたい人は参考にしちゃダメかもしれないけれど!!


小説に登場する人物というのは、何かしら必要だから創られることが大半です。
私の創る子たちも、物語を進める上で必要だから生み出されるのです。

子にはそれぞれ、個性があります。

名前があって、性格があって、そういう性格になった経緯(経験・境遇・過去など)があって、他の人物との繋がりがあって。

そういう色々があって初めて、一人の人物像というものが浮かび上がってきます。


私が何かを”ああいう風”に考えるとしても、その子が同じように考えるとは限りません。
感じたり思ったりすることも同じです。

誰よりもその子を知り尽くしていて、理解してあげることができていなければ、どういう時にどう考えるのか、感じるのか、思うのかが分かりません。

それが分からなければ、その子を小説世界で生かすことはできません。

存在しない人物ではあるのだけれど、その子の生き方というものをなぞってあげる必要があるのです。

だから、『子育て』みたいだなぁって。

小説世界の子を育てるのでさえこんなにも大変なのだから、実際の子育てはどれだけ大変なのでしょうか…。


まだ未完ではありますが。(何度でも言います。)

小説世界のために、この世の色々を学んで。
小説世界の人物を、一人ずつ育て上げて。

それでやっと、舞台と役者が揃うのです。

ここからやっと、私の描いた世界で、私の子どもたちが、息をするのです。


別に、本当に作家になろうだなんて思ってなくて。
ただちょっと、『目的を持って何かに取り組みたい』と思っているだけです。

だから、きっと、一生かかっても完結はしないのだろうな、なんて思っているけれど。

私にとって、『小説を書く』ということは、とても大きな影響を私に与えていて、私を成長させていると同時に、私に色々な経験を与え、考えさせてもくれます。


『不完全』でもいい

noteの記事も、日記帳も、小説も。

いくらだって推敲を続けることができてしまうと思います。

『完成形』というものが、はっきりと存在しないのではないかな、と。


もしかしたら、noteの記事を読み直しも推敲もしないのって、本当の本当はそういう理由が心の底にあるからかもしれない。

「面倒だから」ではありません。
「完成形」は求めなくてもいい、「不完全でもいい」と思っているからです。


今更になってしまったけれど。

記事や小説を書く時、日記を書く時も、かもしれませんが。
私は絶対に『全て』は書かないようにしています。

実は私の心の中で、はっきりとした答えが出ていたとしても、答えは曖昧にしておくとか。
実は私の心の中で、理由がはっきりとしていても、理由は深く追求せずに結果だけを書いておくとか。

若干、私の意地悪さが滲み出てる部分、悪癖でもあるのですが。

もしかしたら誰かが、私の持つもの以上の何かを、考えたり思ったりしてくれるかもしれないって、期待しているのだと思います。

インターネットの良いところって、そういうところでしょう?


しかし、『執筆者』としてそれはどうなのだろうか。

意見が分かれそうなところです。


今日は夜更かししすぎました。おやすみなさい。

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