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ダンゴムシやカタツムリも進んでいる

ここ1ヶ月くらい、マジで調子が良い。
今までは、調子が良いと思っていても、どこか安心感がないというか、どうせそのうち落ちるという予感が確信に近いものだったのですが、最近は、なんとなく「大丈夫な気がする」と感じることができるようになってきました。

別に、全く気分の浮き沈みが無いとか、しんどくなることが無いわけではありません。
疲れたり、嫌なことがあったりすれば、普通にへこみます。でも、そのへこみ方が前とは全然違うように思います。

今日はそういう、うつ病が重かった時の自分と、今の自分がどう違うのか、言葉にしていけたらなぁと。そういう記事です。


全てにおいて私が悪い

以前は、とにかく自分に原因を求めておけば全て解決する、くらいに思っていました。

どれだけ相手に非があったとしても、そうさせた自分が悪い、注意不足な自分が悪い、予測しなかった自分が悪いと、ベクトルを全て自分に向けていました。
なぜかって、相手に原因を求めたところで、私が相手を変えさせることは不可能に近いからです。唯一自分を変えられるのは自分だけ思考。

まあ、これはこれで間違っているわけではないのですがね。
でも実際問題、全てが自分のせいであることってそうそう無いと思うんですよ。自分に悪意があって悪い行動したとしても、動機というものがあります。公平な審議の場である裁判においてさえも、判決に動機が加味されるのですから、人が行動する上でそれだけ重要なものと言えるでしょう。

最近は、間違ってることは間違ってると言えるようになってきました。

元々は、全て自分が悪い世界で生きていたわけですから、まず相手が悪いということを素直に認めるまでに時間がかかりましたね。
相手に原因を求めるのは甘えだと思ってましたし、自分を研鑽しようとしない怠慢だとも思っていました。また、心のどこかで、自分が我慢していれば相手のためになるとも思っていたのだろうと思います。

でも、全くそうではないんですよね。
まず、自分を責め立てることが、自律や自己の研鑽につながるわけではありません。時には厳しくすることも必要ですが、少なくとも、自分が正しい時に自分を否定する必要はありません。
次に、相手の間違いは指摘しなければ、永遠に正されることはありません。むしろ、エスカレートすると思います。
そして何より、相手のためにならないし、自分のためにもなりません。相手が幸せになるわけでなければ、私が幸せになるわけでもありませんよね。こういう状態に甘んじていることの方がよっぽど怠慢だと思います。

正直なところ、どんな時でも一番良い状態は、物事を客観的に捉えられるということだと思うんですよね。
自分が悪いからと全て自分のせいにするのも、逆に全て相手のせいにするのも、バランスが取れていないような感じがします。
また、両者を客観視できていたとしても、どちらが良いとか悪いとか、黒白はっきりさせることも、あまり上手に客観視できている感じがしません。

どちらも良いしどちらも悪い、というのが、ほとんどの場合だと思います。
大切なのは、それぞれの正義が対立する中、どうやって歩み寄っていくかということ。つまり、言葉を交わすことや、話し合いをすることが大切だと思います。


手抜きは甘え

私は十分に余裕のある生活を送れているはずなのだから、これで手を抜くようでは生きていけないと思っていました。
世界中の主婦・主夫の皆さんは、毎日毎食欠かさず料理をし、外で食べる必要がある場合には弁当を作り、洗濯物は溜めない、時間があればパートで働く、お金は完璧に使い1円の無駄も出さない、という生活をして初めて主婦・主夫を語れるのだと思っていました。

んなわけあるか。

たまには外食をしていいし、無駄遣いをしていいし、1回くらい洗濯をサボってもコインランドリーへ全部持っていけばいいし。
上手に手を抜いているからこそ、何年もの長い間、毎日続けていけるのだと、最近気付きました。

それから、私は、金銭的にはともかくとして、時間的には余裕のある生活をしていることは確かです。
しかし、私はうつ病なのだから、健常者が生きているのとはわけが違う。
健常者ならば、時間に余裕を感じて生きられるのかもしれませんが、私には長い睡眠時間や休憩が必要ですし、物事を1つこなすまでにかかる時間も長いと思います。(薬の副作用、集中力の低下、神経系の問題から来るらしい慢性的な倦怠感のようなものなどが原因です。)一番分かりやすいのは、そこそこな頻度で通院もしなければいけないことですね。誰の目にも分かりやすく、イメージがつきやすく、時間のかかることです。

今与えられている時間は、私が病気を治していくために必要だと、お医者さんの指導を受けたり、訪問の看護師やヘルパーさん、ケアマネージャーさんなどの支援者さんたちと相談した結果だったりするので、決して私が甘えてわざとこの状況に居続けているわけではありません。

もちろん、だからと言って毎日外食・買い食いをして料理をサボろうとか、洗濯は月1回で臭いのするものを着回しとか、毎日毎日無駄遣いをしすぎてお金がありませんとか、そういう風になってきたら話は別です。というか、それは多分入院した方が良い。
適度に、例えば、今日は久々に遠出したから外でご飯を済ませて帰ろうとか、雨続きで干せない日が続くからコインランドリー行こうとか、ずっと前から買おうと思っていたものを計画的に貯金して買うとか、それは健康的な生活を無理なく送る上で、むしろ大切なことだと思うんです。

手抜きや贅沢は時として大切ですし、適切な加減でやっていれば甘えということにはならないと思います。ちなみに、ここでいう”適切な加減”とは、何かのために、人としてしなければいけないことに害が及ぶことのない範囲、みたいな意味になります。
仮に、毎月1000万円の給料があるのならば、毎日高級レストランでディナーしていても、生活が困らないのなら問題ないんじゃないですかって感じです。まあ、個々人や状況によって、適切の加減は変わるよねっていうお話です。


やらなければいけない

全部自分のせいにしていたけれど、人のせいにするようになったとか。今まで毎食料理してたけど、外食するようになったとか。
それって進化というよりかはむしろ退化じゃね?みたいなことばかり言ってきましたが、ようやく、これは進化だわってことをお話していこうと思います。

まあ、だいぶここまでのお話とも被るのですが。
一番分かりやすい例として、お料理です。

今までの私は、外食や買い食いは甘えだと思って、月1回程度しかしていませんでした。(この月1回も、あまりにも肉や揚げ物なんかを食べなすぎて、医者に肉や揚げ物を外食で摂取してくださいと言われたので、その指示通りにしているだけのつまらない外食でした。)
そして家での料理も、食べないことはそれはそれで甘えだと思って、朝夕は必ず食べていました。(起きる時間が遅いため、昼はシリアルやヨーグルトなどの軽食か、食べないことが多かったです。)

そんな中で料理をしていたので、料理は嫌いではないはずなのに、あまり楽しさを感じてはいませんでした。
何よりやばいのは、全く同じメニューを2年近く続けていて、飽きたことがなかったということです。完全に食事に対する興味が無くて、作業的に生きるために食べるといった意味しかないレベルでした。

それが本当に最近、今年の4月ごろになって初めて、いつもの食事に飽きたという感想を抱きました。
一度飽きてしまうと、もう2歳児のイヤイヤ期ですよ。なんで今まで、こんな長い間ほとんど毎日のようにこればかり作って、こればかり食べて、飽きなかったんだって。私はサイコパスだったのではないかとさえ思いました。

そう思うと同時に、何かに飽きるということは、別の何かを欲しているということなんですよね。
今までは、特に食べたいものがあるわけではないけど、出されたら食べる感じだったので、自分で食事のメニューを決めることができませんでした。しかし、飽きが来れば、自分が食べたいものが何か分かるんです。

片っ端から、自分の食べたいものをひたすら、調べて、買い出しして、作って、食べてを繰り返しました。前回やってみたけどうまくいかなかったと思ったら再チャレンジしたり、やってみて気に入ったらローテーションさせたりもしっつつ、まあ今日まで2ヶ月くらいですが、料理の幅がぐんと広がりました。
そして、買い物や、料理をする時間も楽しめるようになりました。

まあでも、たまには疲れることもあります。食べたいものが決まらなくなることもあります。
そういう日は外食をしてリフレッシュをすると、なんだかんだ上手くいってます。そうしたとしても、外食の頻度は月1回か2回で、めちゃくちゃ増えるわけではなく、金銭的にもあまり負担にはなりません。

上手くバランスをとって、作らなければというストレスから解放されて、のびのびと料理をしている感じです。


金を使うな

これが、私の中で一番大きな変化。

うつ病の特徴なのかもしれませんが、お金を貯めなければ、お金を使わないようにしなければと思っていると、なぜかお金を使ってしまうんですよね。
私の場合、お金が入った時点で、ある程度の決まった額は振り分けてしまうので、生活費が無くなって困るということはそうそうありませんが。貯金しようと思っていたお金が、気づけば使ってしまってほとんど溜まっていないという謎現象を、とにかく何度も繰り返してきました。

そのほとんどは、大して欲しくもないようなものを購入していたように思います。
使うか分からないのに化粧品を買うとか、読むか分からないのに本を買うとか。こうして物が増えて、整頓に困って、でも捨てるのももったいなくて…の悪循環にもなります。

でも最近は、今までAmazonを見ていた時間を、スケートのことを考えるとか、筋トレをしに公園へ行くとか、お料理レシピを漁って献立を考えるとか、料理をするとか、散々買ってやってなかった問題集を解くとか。
そういう、健全な時間の使い方ができるようになってきました。

ストレス無くお金が溜まるようになって、良いことしかありません。


生活ができるようになりつつある

色々と、快方に向かいつつあるのは確かだろうと思います。
でもまだ、完全に治ったわけではありません。

病院へ行かなければいけないし、お薬を飲まなければいけない。
たくさんの支援者さんたちがいるから成り立っているのかもしれないし、制度によって保護されているから生活ができているわけですし。

バイトしたことがあるとか、学校卒業したら仕事をし始めたとか、そういう人には到底想像もできないかもしれませんが。
私は、週1・1,2時間程度の、お仕事の”練習”から始めていかなければいけないようなところにいます。そして今やっと、その練習を始める準備が整いつつある、というところです。

まだ、仕事をするというスタート地点にすら立てていません。
一般就労はもちろん、障害者雇用でさえも、今はまだ考えられない程にハードルが高いです。

うつ病というだけで、お仕事体験の幼稚園児の方がまだ働けるってレベルで、何もできない場合もあります。(もちろん、誰もがそうというわけではありません。私は結構重い方だと思います。)
でもそれは、”今はまだ”というお話で、今後もずっとそのままでいようと思っているわけではありません。少なくとも私はそうです。

カメどころか、ダンゴムシやカタツムリのようにゆっくりのんびりとしていますが。歩みを止めてしまっているよりはずっと進んでいます。
何事も、立ち止まることが一番悪手だと思いますよ。大抵の場合、何も変わらないよりかは変わった方が良いだろうし、自分が立ち止まっている分、世界は勝手に変わっていってしまいます。

これからも、死体や物にでもならない限り、前へと歩き続けて行きます。

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