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一年前の反省会

最初にこんなことを書くのもおかしいかもしれませんが、この記事の執筆には自分が思っていたよりはるかに長い時間がかかってしまいました。

私の心の問題もあるでしょうし、そもそも一年前のことですから記憶が曖昧で、書いているうちに「あれれ?」ってなってしまうことも多くって。

だから、もしかしたら、一年前の私からすれば嘘を書いてしまってる部分があるかもしれないのですけれども、少なくとも今の私からすれば本当のことを書いているつもりです。

だいぶ長い記事ですが、読んでもらえたら嬉しい、かもしれません。


一年前を振り返ってみよう!

前から、「11月になったら、一年前のことを記事にしよう」と思っていたのですが、いざ11月になってみると、明日でいいや、来週でいいやの連続で、結局下旬。

ポッキーの日、すぎてますよ。
あと一週間で今月終わりますよ。

本当に、計画性のないことで。

まあとにかくね、一年前、私に何があったのか、振り返る意味でも書いていこうと思います。


OD

『OD』って知ってますか?
『オーバードース(OverDose)』のことですよ。

お薬を飲みすぎるということです。
大量服薬とか、過剰摂取、過量服用、なんて言い方もしますね。

1年前の私は、通っている精神科さんから処方されているお薬を、一気に飲みました。

40錠以上あった気がします。

当然、一度に飲み切れる量ではありませんから、何回かに分けて。
おそらく、10錠ずつくらい、ゴクゴクと。

どうしてそうなったか。

細かいことは覚えていませんが、たまたま偶然、なんとなく、とてつもなく、しんどかったんですよね。

それで、とりあえず、飲む飲まないはともかくとして、ODする準備だけしたんです。

目の前には、飲み物と、開封された大量の薬。

するか、しないか。
さてどうしよう。

まだ私は、ギリギリ一歩、踏みとどまっていました。
いつでもODできるぞ!みたいな準備を整えて、ツイッターしてたんです。

でもやっぱ、このままだとどうしてもODしてしまう気しかしないと思って、心の病気のホットライン的なところに助けを求める電話をかけたんですよ。

何を言ったのかは全く覚えていませんが、とにかく「しんどい」ということを伝えたと思います。

そしたら、

「睡眠薬を飲んだなら、眠っちゃいなよ」

って、言われて。
(睡眠前だったので、適正量の睡眠薬を飲んだ後に電話をかけていました。)

全く、悪気のある言葉ではなかったはずです。
お布団に入っていれば、きっと眠くなるよ、みたいな。
そういう、優しい言葉でした。

でも、あの時の私からしたら、

私って、助からないんだ。
助けてもらえないんだ。
見捨てられたんだ。
助けを求めても助けてもらえなくて、私は助からないんだ。

その瞬間、もう何もかもどうにでもなってしまえばいいのにって、自棄になっちゃったんです。

もう、飲んでしまおう。
飲めば、もしかしたら誰かが助けてくれるかもしれないし。

でも、飲むと決めてからも、私の中では葛藤が続いていて。

だって、その薬の中には大量の睡眠薬もありましたから、誰にも気づかれずに私が眠ってしまえば、本当にそのまま死ぬかもしれない。
炭酸リチウムも大量にありましたから、眠ってしまえば確実に、そこそこ重度のリチウム中毒になる。

死ぬかもしれない。
二度と起きられないかもしれない。

どんなに生きることが苦しくて仕方なくても、やっぱり、死ぬのって怖いんですよ。

漠然と怖かった。
死ぬ瞬間、私はどうなっちゃうんだろう、みたいな。

だから、葛藤していたんです。
でも、その葛藤がいけなかった。

当時の私は、仕事を辞めた直後で、強迫症状というか、若干多重人格のような症状が続いていたんです。

「飲め」と、言いました、誰かが。
言ったなんて生温い、その誰かは私を、脅してきました。

脅された私は、飲みました。

死ぬことより、今、脅されているということの方が、私にとっては恐怖だった。

私には、飲む以外の選択肢が与えられなかった。

全部飲んで、ちょっと冷静になって。
即効性の睡眠薬(睡眠導入剤)の影響か、ちょっとふわふわというか、くらくらというか、ちょっと朦朧として。

飲んじゃったわけだから、ちょっと変なテンションでもあって。
冷静さなんて、これっぽっちもなくって。

あーあ、やっちゃった。
でも、思いの外平気じゃん。
寝て起きれば、いつも通りの明日がくる気がする。

そう思った私は、ちょっとツイッターして、そのまま寝ようと思いました。

でも、ある人が「すぐに救急車呼んで」みたいなリプを返してくれて。
私にとってその人は、とっても大切な人で、信頼できる人だったから、なんだか素直に言うことに従ってしまって。

火事ですか、救急ですか。
————救急です。

「…もう救急車手配したからね、あと5分くらいで到着します。」

その一言に安心して、泣きながら、「ありがとうございます。」と言って電話を切ったことを、今でもよく覚えています。


起きたら知らない天井、管だらけの私

アニメやゲームの世界ですよ、全く。

救急車を呼んだ、救急隊員が来た、救急車に乗った。
そこまでは覚えています。

でも、それ以降の記憶が、飛び飛びというか、断片的というか。
ほとんどない上に、あっても朦朧としていて、耳が遠くて、視野なんて目の前20cmくらいみたいな。

ですから、寝て起きたら知らない天井があって。
点滴と、胃洗浄の管と、心電図が私の体にくっついていて。

ナースコールらしきものをポチッとしたら、看護師さんがやってきて。

ここはどこですか、とか。
どうしてこうなってるんですか、とか。
異世界転生した人みたいなことを聞いて。

私からしたら、とにかくわけが分からなくて、心細くて、軽くパニックでもあって、看護師さんと話してたいなぁみたいな気持ちではあったのですが。

深夜だったということや、薬がそこそこ体に回っていたということもあって、腑に落ちないまま眠りました。


冷静の仮面を被った母

もう一度起きたら、母がいました。
これについては記憶が不鮮明で、母か看護師さんに起こされたのかもしれないし、眠りが浅くて母が来たことで起きたのかもしれません。

まあとにかく、搬送先の病院から電話をもらった母が、静岡からすっ飛んできたらしかったです。

母とちょっと話して、看護師さんから今いる病棟の説明をされて。
家から何か持ってくる?みたいな話もして。

その時の母が、異常なくらいに落ち着いていたことをよく覚えています。
意識が朦朧としている私がそう思ったくらいですから、相当に異常な様子だったのでしょう。

その時もまだ深夜でしたから、当然、お見舞いの時間外。

私の家の鍵を母に渡して、母は仮眠をとるために私の家へ。
私は私で、入院ベッドの上で寝ました。


四角く切り取られた青空

朝の8時。入院生活は規則正しい。
看護師さんが色々な人を起こして回っていて、私も起こされました。

カーテン越しにも分かるくらいの晴天。

カーテンの外で朝食が配られる中、管の通ったままの私は点滴で生きていました。

いや、点滴って、すごく不思議ですよね。
何も口にせずとも排泄だけはめちゃくちゃする。

私の記憶がない間、私は胃洗浄されていたそうなので、まあそれも排泄の多さに影響してはいたのでしょうけれど。

飲み物を全く口にしていないのに、何度もトイレに行きたくなるというのは、なんて不便な。というか、不思議な。

ちなみに、管だらけの私は、トイレに行きたくなる度にナースコールです。
もっと言うと、その病棟では常に全員心電図が付けられていて、ナースステーションから心電図が監視されている場所だったので、胃洗浄や点滴の管が外れても、トイレに行くためにはナースコールを押す必要がありました。

その、何回かのトイレに立つ途中で、病室の窓から、めちゃくちゃ綺麗な青空が見えたんですよ。
少なくとも窓枠の中には、雲一つありませんでした。

綺麗だなー、見てたいなーなんて思いつつも、ピシャリとカーテンで仕切られてしまいました。
悲しい。

それから二度、別の先生の診察がありました。

一人は多分、内科の先生だったと思います。
体調はどうかとか、食欲はあるかとか聞かれて、管と点滴が外れました。

朝食は抜きでしたが、昼食から食べられるように!
病院食ってどうなんだろうと、あまり期待せずに待っていたのですが、蕎麦でした。
普通に美味しかった、量が少ないのが玉に瑕。

もう一人は、精神科の若い先生でした。
カウンセリングのような形で、どうしてODしてしまったのかとか、退院後どうしたいかとか、そういうことを聞かれました。
退院後はしばらく、実家で療養した方が良いという診断をいただきました。


退院と帰省

それからは、トントン拍子でことが運びって、使い方合ってるかな?

管が外れて、食事をとれて、入院した日の午後に退院しました。

多少ふらついたり吐き気が残ってたりと、リチウム中毒していたり。
鼻から胃まで、半日近く管が通りっぱなしだったせいで、めっちゃ喉が痛かったり。

色々と爪痕は残りつつも、無事退院って感じでした。

一旦帰宅して、風呂入ったり、鳥の世話したり、荷造りしたり。
母は仮眠を取ったりして、車の少ない夜、静岡に向けて出発。

私を連れ帰ることを想定して、静岡県西部から関東の私の家まで、車ですっ飛んできたんですよね。

母は強し。

それから、ほぼ丸々1ヶ月。
実家は引っ越しの最中で、ほとんど居場所がなかったので、母方の祖父母の家で療養することになりました。


沢尻エリカさんのニュース

もう皆さん忘れてしまったかもしれませんけれども、ちょうど一年前くらいに、沢尻エリカさんが違法薬物で逮捕されたニュースがあったことを覚えていますでしょうか?

私は、とても深く記憶に残っています。
というのも、当時の私と沢尻エリカさんが、めちゃくちゃ被っているような気がして。

実際に飲む直前は、おそらく、そこまで強くなかったのですが。
飲んで、運ばれて、入院して、退院してと、全てが済んでしまった時、ふと「飲めば誰かが助けてくれるかもしれない」と期待してた自分に気がつきました。

実際に助けられたから、そう思っていたような気がしてしまうのかもしれませんけれど。
ヘルプを出せない私は、周りが助けるしかない状態に自分を落とし込む以外のヘルプの出し方を知らなかったのは確かです。

沢尻さんも、どうしようもなくて、薬を頼っていたというか。
薬に頼ることで、どうにか自分を保ち続けていたというか。

むしろ捕まってみて、案外ホッとしてるんじゃないかって思ったんです。

捕まることで、やっとヘルプが届いたというか。
助けられることができたというか。

そういう「ホッとした」という気持ちが、私と彼女は同じだったんじゃないかって。

実際にどうだったのかは分かりませんけれど。

こんなことを言ってはいけないのでしょうけれど、正直、あのタイミングだったということもあって、私は彼女に背中を押されてしまったような気がするのです。

ヘルプを上手に出せないのって、案外私だけじゃないのかも、とか。
みんなだって案外、生きてるのがしんどいのかも、とか。

失礼ですけれども、有名な芸能人だって苦しいことは苦しいし、辛いことは辛いんだな、とか。

とにかく、私だけじゃないんだって。

あのニュースのおかげで、少なくとも私は、孤独にならずに済んだように思います。

沢尻エリカさん、本当に美しい方で、素敵な演技をする人ですから、いつかまた、彼女の笑顔が見たいです。


一年前に書いた何か

退院してから、ほぼ丸々1ヶ月、静岡で療養していました。

何もかもを頭から外して、休もう、みたいな。

まあでも、うつ病の人って、休むこともうまくできないんですよね。

全身ガチガチに凝ってるとか、うまく眠れないとか、逆に眠り過ぎてしまうとか、気晴らしに何かという気力が沸かないから、ストレスは募る一方だとか。

その上、療養生活と言いつつ、ぶっちゃけ慣れない生活でもありましたからね。

一人暮らしとは違う環境なわけですし。
世話をしてくれるとはいえ、そもそも世話をされないことに慣れてしまっていたわけですし。

なんかこう、うまく休めないなぁみたいな毎日を送っていたような気がします。

ちなみに、ここまでは前置きで。
私、去年の夏頃から、小説を書き始めてですね。

まあ、いまだに一つも完成してないんですけど!

そんなことは置いておいて。
あの療養生活の間に書いた、ただただ心の内を、自分が書きたいように書き殴った怪文を発掘しました。

それがね、特に深い意味はありませんが、うつ病ってそういうのなんだって感じるような文章ではあったので、コピペしておこうと思います。

 今日も、私は人間でした。

 両手両足に、指が5本ずつ揃っていて、不自由なく動かせます。
 その上、歩けるし、喋れるし、聞こえるし、感じれるし、見えるし、思える。
 誰よりも恵まれているのかもしれません。

 些細なことを繊細に感じ取る力があるので、音や肌触りに強く不快感を憶えることもありますが、蝶々が蜜を吸う姿や徐々に形を変えていく雲に心惹かれるなんて、優雅な感性を持っているとも言えます。

 今の私にとっての不幸は、そうやって恵まれていることです。

 本当に恵まれていなければ、何もかもに絶望して、投げやりになってしまうことだって許されるだろうに。
 恵まれてしまっているがために、感謝をしなければならない。その上、恵まれている分の労を執らなければならない。

 私は、一般的には「健康」と言われる体を持っているので、本来ならば勉学や就労で、恵まれてる分の労を執るべきでしょう。
 私の周りの人たちも、何かしらを目指して学んでいたり、何も目指していなくても働いて経済に貢献しているのは確かだと思います。

 じゃあ、自分はどうなのでしょうか。
 食いたくない飯を、体を保つためだけに体に放り込む。
 動かしたくない瞼を、真っ暗な中だと気が狂いそうだからまばたきさせる。
 吸いたくない空気を、自分でない誰か、自分の体が欲するから吸い込む。
 動かしたくない心臓を、自分で止めれないから、仕方なく貴重な労力を削って動かし続ける。

 学ばず、働かず、死ぬこともせず、かといって今をよしともせず、生きている心地がしないまま時に流されている。
 生きてるのか死んでるのかも、よく分からない。

 これでも「生きている」というのだから、不思議でならないなんて思ってみるのです。

 今の私は、誰かが飯を与えなければ、ゆっくりと餓死するんじゃないかとさえ思います。
 いえ、実際は、どうしようもなくお腹が空けば、食えるものはなんでも口に入れる程度はすると思いますが。

 そんな状態の人間を、ですよ。生かしておいて、何になるのでしょう。
 将来に期待しているのでしょうか。私に期待するより、他の誰かに期待した方が、よっぽど現実的だと思いますが。
 そもそも、今の私に「元気にならにゃ」「今後どうするの」なんて、将来の話を持ちかけるのが大間違いなのです。

 「生きてたら生きる、死んでたら死ぬ」としか、私の中にはありません。


閉会

なんだか、チグハグになってしまいましたね。

私の記事って基本的に、休みなしにパーっと書いて投稿!ってスタイルをとっているので、何日かに分けて書いて、修正して、また寝かせて、書いて…ってしていると、どうしても全体としてチグハグというか、色々が唐突すぎる記事になってしまうんですよね。

下手くそ。

まあでも、これはこれでアリだと思ってますよ。

だって、なんか、リアルじゃないですか。
いいですよね、リアル。写実的。

さて、長くなりすぎてしまいましたけれど、長い割に中身の薄い文章になってしまいましたけれど。

自分のために、書けてよかったなと思っています。
私って、すごく自己中心的ですから。

こんな馬鹿話でも、誰かの心を動かせたら、なんて。


一年前の私へ

一年後の私は、相変わらずダメな奴ですが、とりあえず生きています。
前を向けているかも、進めているかも、歩んできた道が正解なのかも、何も分かりません。
それでも、生きています。それから、生きていきたいと、少しは思えるようになっています。

少なくとも、一年前の私は報われています。
今の私はまだ、報われていませんけれど、きっといつか、報われる時が来ると信じています。

それだけです。またいつか。

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