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耳の痛い話、育むべき直言

「何が愛情だと思う?」と問われると、ぼくは「時に耳の痛い話だけれど、育むと豊かに実るような直言のこと」と答えると思います。他にもいろいろあるとは思うのですが、「特にこれだな」と思うのが”耳の痛い話”です。


愛情なんて、都合のいいことばかりではないというのがぼくなりの考えなのですが、だからこそぼくは作品づくりのコンセプトにしたのだろうと自分の過去を振り返って思うことがあります。つまり”愛情が苦しかった”という経験があるからこそ、そこに関する物語に苦悩もあれば人に迷惑をかけてきた経験があるということです。


ぼくとは違って人の愛情に早く気づける人もいると思うのですが、ぼくの場合は自分事の悩みを考えることで頭の中がいっぱいで、かつとても鈍感でした。特に20代の頃は自己中心的で、自己愛的で、なかなか人の愛情に気づくことができないでいたのです。


そうすると愛情に気づくのに時間がかかり、必然的に愛情と向き合う時間が長引いていく結果になりました。だからこそ、その向き合ってきた時間に”こだわり”のようなものも生まれてくるのです。


”自分が変わるためには直言が必要だった”ということを、ぼくは確信をもって言うことができます。つまり”耳の痛い話”です。「自分のことばっか考えて、相手の立場に立って考えられないのは心の病気だよ」と知人からずっと言い続けられていたのですが、これも一つの直言であり、当時の自分にとっては非常に耳の痛い話でした(今でも痛い)。


ただ、自分の問題点がはっきりすると何に取り組むべきかが具体的に分かってくるので、”他人に興味をもつには自分のどんな行動を変えていけばいいのか、どういう価値観を変えていく必要があるのか”などと考えることができます。これこそが非常に重要で、”明確になるからこそ見出せる行動”というものがあるということです。


自分を変えるために自分の問題点を明確にすることは、時に痛みの伴うことではありますが、もしその明確にするという作業を誰か他の第三者が担ってくれたとすれば、それは愛情以外の何物でもないということを思います。”汚れ役を担う”という風にも言えるのかもしれません。直言を言うことで嫌われる可能性もないとは言えないからです(実際、ぼく自身が直言を言ってくれた人を憎んだこともあるので)。


ぼくが絵本のコンセプトを”愛情”にすることにこだわっているのは、単純に愛情と向き合った時間は一筋縄ではいかなかったからです。これはある種、ぼくの本音と言えるかもしれません。愛情は自分にとって都合の悪い場合が多いということをぼくは学び、今でも痛感することが多いと感じています。


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