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WISHING 09/09/23 マスクが決してなくならない理由〜超監視社会とシゾイド人間 Why Masks Will Never Go Away 〜Super-Surveillance Society and Schizoid Man (read10分)

コロナウイルスはその生存環境から受ける選択圧に適応するように進化を繰り返してきた。一方、選択圧をかけてきた宿主側の人もコロナという選択圧に適応するように、短期間にその心の有様を一気に進化させることになった。

1️⃣人は被害妄想的になってきているのか?

診察室内における患者と医者という治療関係は、病気そのものとそれに関わる心配や不安(時には生命に関わる不安)を挟んだ、非対称性の強い対人関係であるため、強い立場と弱い立場という関係性のイメージを生み出しやすい。

そこで生じる現象は、客観的にみた患者と医者の外的な関係に留まらない。むしろ、特に患者側の主観の中で相手の人物をどんなふうに認知し、相手の人物像にどのような幼児的な対象像を投影するか、客観的な対人認知を内的な空想やイメージがどんなふうに歪めているかが問題になる。精神分析学でいう「転移」である。一般に、対人関係は、母親像や父親像といった、それぞれの人物の中に取り入れられ内在化した内的な対象像と自己の関係と相手の人物との外的な関係が二重に交錯して展開される。

パンデミックが始まった頃から最初のワクチン・キャンペーンの頃までは、医療関係者は感謝と賞賛の的になった。しかし、今ではそんな極端な英雄的イメージは消え、パンデミック前と同じように、弱者に対する強者という対象イメージが復活している。

医者の面接技術の拙さを差し引いても、医者が怒ったり叱ったりしたつもりはないのに、患者が怒られたとか叱られたなどと感じるという現象は、永遠になくならない。1990年代から観察してきてようやく検出できたように思える変化なのだが、患者が昔よりも怒られた叱られたと認知する、いわば被害妄想的認知の傾向が強まっているように感じられる。その原因は、単に消費者権利意識の高まりだけとは言い切れない。なぜなら、この期間、日本社会は大きく変化したからである。

2️⃣日本という村社会の原型

1946年の、日本論、文化人類学の古典「菊と刀」ルース・ベネディクト からである。

真の罪の文化が内面的な罪の自覚に基づいて善行を行うのに対して、真の恥の文化は外面的強制力に基づいて善行を行う。恥は他人の批評に対する反応である。人は人前で嘲笑され、拒否されるか、あるいは嘲笑されたと思い込むことによって恥を感じる。いずれの場合においても、恥は強力な強制力となる。

日本人は恥辱感を原動力にしている。恥は徳の根本である。日本人の生活において恥が最高の地位を占めていると言うことは、各人が自己の行動に対する世評に気を配るということを意味する。彼らはただ他人がどういう判断を下すであろうか、ということを推測しさえすればよいのであって、その他人の判断を基準にして自己の行動の方針を定める。

彼らは、「世間がうるさいから自重せねばならない」とか「もし世間というものがなければ、自重しなくとも良いのだが」などと言う。外部の世間の評判の是認ということが、おそらく他のいかなる社会においても比類を見ないほどの重要性を帯びている。日本人は罪の重大さよりも恥の重大さに重きを置いているのである。

彼の一生を通じて、仲間外れにされると言うことは、暴力よりもなお恐ろしいことである。彼は嘲笑や排斥の脅威に対して、単にそれを頭の中に思い浮かべたにすぎない場合においてさえも、異常に敏感である。

(日本)人は幼少の頃から、自ら進んで受けるかあるいは権威によって強いられる訓練によって社会化されねばならない。これは抑圧である。当の人間は、このように自分の願望が制限されることを不快に感じる。彼は犠牲を払わなければならない。そのために彼の心の中にはどうしても反抗的な感情が呼びさまされる。

このように深く心の中に二元性が植え付けられる。そして、それは緊張を生じる。

彼らは心の中にせき止めている彼ら自身の反抗心に恐れを抱き、上べは柔和な態度を装って、それを蔽い隠す。彼らはしばしば、彼らの本当の感情を意識することを防ぐために、つまらない瑣事(さじ)に没頭する。彼らにとっては実は全く無意味な日常の務めをただ機械的に遂行する。

こういうふうにして醸し出される緊張は非常に大きなものである。このような緊張は個人には重い負担である。人はしくじりをしないように、また多大の自己犠牲を忍んで行う一連の行為において、誰からも自分の行いをけなされないように、気を配らなければならない。時には、こらえにこらえた鬱憤を爆発させ、極度に攻撃的な行動をする場合もある。

3️⃣日本という監獄社会のからくり

囚人を監視するためのパノプティコンという施設には、円形の独房とその中心に看守の見張り塔がある。看守は円形の独房をすべて見回すことで囚人の様子を逐次チェックできるが、囚人からは塔にいる看守の姿が見えないように工夫されている。すると看守は、見張り塔にいなくてもよくなる。

 囚人は看守を見ることができない。だから看守がいようといまいと、24時間、いるかいないかわからない看守に「見られているのではないか」という不安に駆られることになる。すると囚人は、いつの間にか常に見られていることを意識し、徐々に模範囚的行動を取るようになる。

 この「みられているかもしれない」という感覚をつくりだすシステムさえあれば、囚人は勝手に模範囚になる。わざわざ模範囚になることを強要せずとも、相手がそうなるような心理的ストレスを与えることができる。学校や工場、軍隊など、あらゆる場所でこうした権力が利用されている。(「監獄の誕生」ミシェル・フーコー)

4️⃣デジタル超監視社会の到来と凶器(狂気)化したSNS

インターネットが普及した1990年代、世界の民主化と同時進行で、それは自由と希望の象徴だった。しかし、SNSの導入後、現代人は、自分の行動を写真に撮り、オンラインで公開するようになった。プライベート空間がネット上に公開され、私的領域と公的領域の区別がなくなっていく。プラットフォーマー企業は国境を越えて大量の個人データを取得し、企業による消費者の「監視」が始まった。かつての全体主義体制では、人々は自分の考えを隠そうとしたが、今は自ら喜んで公に晒(さら)す。全体主義を自ら引き寄せていく「市民的服従」というメカニズムが確立した。

元来、社会規範や倫理からの逸脱者の発見、追跡、監視は、支配権力者が社会秩序を乱す者に対して行う公的行為だった。しかし、多数が多数を監視するSNSというシステムの中に入ると、本来秩序維持の権限も責務もないはずのソーシャルメディアは、道徳性とか倫理性などという正当性を担保する主観的で身勝手な根拠に基づいて、逸脱者を自動的に監視、排除するシステムが出来上がった。(1189)(1190)(1191)

村八分ならば、村から出ていけば済んだのであるが、もはや、私たちには生きている限り逃げ場はない。

5️⃣コロナによって確立された超監視社会

コロナは人々に、命と引き換えに、国家による個人の監視と隔離という公権力の介入を容易に受け入れさせた。人々は意図したか否かに関わらず、政府の権威に従い個人情報を自ら提供し、行動を制限し、隔離するという自己犠牲を払うことこそが、世間に対する徳であると思い込んだ。同時にそれは恥を逃れるためにできる最も安易な行為だった。

さらに、大衆が大衆を監視するというシステムを公権力が利用するという大実験も行われた。行政による公衆衛生指示は、情報更新と判断の遅れが常態化していた。にもかかわらず、公権力による大号令を、その大衆監視システムに投げかけさえすれば、若年者などの未成熟な自我をもつ人々がまず隷属することは確実であった。そこから波及するように、マスクによって象徴される大衆-大衆監視システムは自動的に作動し続けた。行政の指示に従わない逸脱者を探し出し、徹底的に排除しようとした。公権力にとって社会全体を従属させることは容易なことであった。(1192)

6️⃣超監視社会で生き残るための心の防衛作用

人は生きるために、意識せずとも、目の前の不安を回避して環境に適応するために、心の防衛機制を働かせる。(「心の臨床家のための精神医学ハンドブック」 小此木 深津 大野)
では、こうした社会変化のような、進化論の選択圧の下、自然淘汰によって、ゲームの舞台で生存に有利になる個体変化とはどのようなものであるか?どのような精神構造に進化すれば、超監視社会からの圧力や恐怖を最も回避できるのか?

アノニマスによる超監視空間では、できるだけひっそりと身を隠さなければならない。できるだけ引き籠もらなければならない。そして、公共の場に出ても、身を隠さなければならない。衛生対策という願ってもない正当化の理由が得られることになった。マスクと帽子は、超監視から身を隠すと同時に、隠れて大衆を監視するのに絶好の道具、生き延びるための必需品であった。

そして、できるだけ目立たないように、自分の存在をアピールしないように、自己表現をしないことである。そもそも自己が存在するのに自己表現をしないということ自体が、自分にとってストレスになるのであるから、むしろ自己というものがないほうが、ストレスや不安をより回避できる。したがって、自我とか自己とかいうものを確立させるための精神の発達そのものが不要、むしろ生存にとって不利なものであり、それらは未熟なほど好都合である。すでに自己があるのならば、それは抑圧によって押し殺し、見えないところに仕舞い込むしかない。

一貫した自我は、自己を確立すると同時に、自分の存在を自分自身や周囲にアピールすることになるため、身を潜めるためにはむしろ邪魔なものとなる。人は理性的自我による自立を放棄し、思考停止という心の退行に陥るほうが、超監視社会の恐怖を回避しやすいことになる。

人格同士が激しく火花を散らして衝突する事などもってのほか、敬遠することが最良の選択となる。愛憎も希薄で、人格的な深い関わりを回避し、適当に他人に同調し、自分の役割も一応果たしておけばよい。

7️⃣適者生存のためのシゾイド人格変化

小此木は適応様式としてのシゾイド人間を提唱した。シゾイド人間は、一貫した自我が希薄で、人格的な深い交わりを避けて、引き籠もりがちである。

90年代初頭までは、彼らは社会に適応できず、孤立したり、疎外されたりする傾向にあった。その後、ネットを介した対人関係の増加と対面の対人関係の希薄化という、シゾイドに有利な社会的選択圧が加わる。その後出現したデジタル超監視社会は、彼らによってもたらされたのか、それとも彼らの生存にとって好都合だったからなのか、いずれにせよ、21世紀に入るとシゾイドは指数関数的に繁殖していき、特に現在の生産人口世代の隅々に渡る拡がりを見せることになった。

シゾイド人間の根っこにあるのは、全能感と貪欲さである。自分が対象を完全に支配し、自分のものにしてしまわないと気が済まない自己中心的な全能感である。そうしなければ、対象からやられてしまうのではないかと被害妄想的に恐れる。対象から「のみこまれる不安」と同時に、自分が対象を「のみこんでしまう不安」がある。

それを回避するために、人格的な深い関わりを回避する。内心は親密な人間関係を望んでいるが、関係が破綻したり、別れざるをえない時の「対象喪失」の苦悩や悲哀に耐えられない。喜怒哀楽を伴う深い愛情関係に伴う激しい感情の動きに心が傷ついてしまうことを恐れ、感情表現を規格化された範囲内に抑える。

関わりに入る前から、関わりを持ってしまったら、自分の自由を奪われたり、自分を失ったりするのが恐ろしいという感覚を持っている。「のみこまれる不安」を回避するように、恋愛に尻込みしたり、上司との付き合いを避けたりする傾向などが見られる。

まともに関わり合ったり、付き合わず、適当に表面的に同調しておこうとし、一時的、部分的関わりしか持たない。人格的に付き合うのではなくて、相手をただ手段としてだけ、道具としてだけ付き合う。対象は自分にとって手段でしかなく、主体はあくまで自分だと捉えており、そうすることによって全能感を失わずに済む。

今では呼び名が変わった分裂的性格の場合は、単にひねくれて自分に閉じ籠もり、完全に引き籠もってしまう。一方、シゾイドは同調的引き籠もりという手段を採る。適当に他人に同調し、自分の役割も一応果たしておく。集団に深く帰属し、責任を引き受けるなどという面倒な事態に追い込まれてトラブルになりそうなことは回避する。

そして、統合失調症の場合は、妄想、特に被害妄想を抱くようになることがあるが、シゾイドでも、本人の主観の中で、自分の内的な情動や不安を投影した対象イメージや空想、妄想などを外的現実と思い込んだり、外的現実に内的現実を投影してしまう傾向がある。自己中心的な全能感を守ろうとするあまり、対象にのみ込まれ、やられてしまうのではないかと被害妄想的に恐れる。自分が傷つくことに極めて敏感である。(「シゾイド人間 内なる母子関係をさぐる」 小此木啓吾)

怒られたという認知は、極めて主観的なものである。怒られることは、怒られる受け手側にある内的イメージの外的現実への投影であるために、こっちに怒ったつもりが微塵もないのに、相手が怒られたと感じるのは、よくあることである。

緊張して不安がいっぱいで、心の退行現象が生じやすい診察室という面接構造においては、患者と医者という非対称性の強い対人関係において、強い立場と弱い立場という関係性の内的イメージが投影されやすい舞台設定は昔も今も特別に変わったはずもない。また一般的に、医者側はむしろ昔よりも今の方が消費者としての患者に気を使うようになっている。したがって、そこで、怒ったという意図が医者側に全くないセッション中、患者が怒られたと感じる事象が増えたようだということは、患者側の心の中で、強者と弱者というヒエラルキーにおいて、命令され隷属されるという「のみ込まれそうな自己」イメージが想起される機会が増えたということになろう。それは、特に自分が傷つけられやすいことに過敏になっていて、被害妄想的な思い込みに傾きやすいシゾイド人格が増えたことを示唆する。

8️⃣被害妄想は監視社会の専売特許、マスクは決してはずせない

シゾイドは、70年代に予言されていた通り、現代人の標準的な人格になってきた。それは一般的な日本人のひとりひとりが対人関係においてますます被害妄想的な認知傾向を強めていることを意味している。

これは、30年という長期観察を持ってして、ようやく検出できる程度のわずかな変化であり、すでに人口のうちの多数派を占めるようになったシゾイド人格をもつ人々からは、記憶バイアスによる信憑性の低い単なる作話として一笑に付されるかもしれない。しかし、今から100年前の人々から見れば、現代人は十分に統合失調症的に見えるのではないかとも思える。

業種の如何に関わらず、大衆監視システムそれ自体になった買い手からの一方的なクレームが増え、売り手がそれに怯えてますます気を使って消耗するという現象が顕著になっているその裏には、消費者権利の相対的な高まりだけでなく、自覚されにくい被害妄想的な認知がその陰でまるで顧みられることなく、表舞台に立つ者の生き血を吸って、のうのうと増殖し続けているようにも思えるのである。

このように、被害妄想的認知は監視して探し出すための魔女狩りの証拠を提供し、大衆監視システムの原動力そのものとなっている。超監視社会の進化には、実は被害妄想が不可欠、不可分のものであり、そのために被害妄想的認知を供給するシゾイド人間をさらに増殖させようという卵と鳥の関係のような自動増殖装置が働いている。

これからも、私たちの住む超監視のつく監獄社会は、人格のシゾイド進化の観察に最も適したモデルを提供し続ける。自我の未熟な日本人はマスクを永遠にはずせない。未来社会は、シゾイド人間よりもさらに病的な人格変化に有利な選択圧をかけ続けてくるものと考えている。

Coronaviruses have repeatedly evolved to adapt to the selection pressure they receive from their survival environment. On the other hand, people on the host side who have been subjected to selective pressure have also evolved their mentality at once in a short period of time to adapt to the selective pressure of Corona.

1️⃣Are people becoming paranoid?

The therapeutic relationship between patient and doctor in the doctor's office is a highly asymmetrical interpersonal relationship between the disease itself and the worries and anxieties (sometimes life-threatening anxieties) related to it, which easily generates images of a relationship between a strong position and a weak position.

The phenomena that arise there are not confined to the external relationship between the patient and the doctor from an objective point of view. Rather, it is a question of how the patient perceives the other person, especially in his or her subjective view, what infantile object image is projected onto the other person's image, and how internal fantasies and images distort the objective interpersonal perception. This is what psychoanalysis calls "transference". In general, interpersonal relationships develop through a double interplay between the self and the external relationship with the other person, with the internal object image incorporated and internalized in each person, such as the image of the mother or father.

From the beginning of the pandemic to the time of the first vaccine campaigns, medical professionals were the object of appreciation and admiration. Now, however, such extreme heroic images have disappeared, and the object image of the strong against the weak has returned, just as it was before the pandemic.

Even if we discount the poor interviewing skills of the doctors, the phenomenon of patients feeling angry or scolded even though the doctors did not intend to scold or anger them will never disappear. It is not simply a matter of a heightened sense of consumer rights, but also of a sense of being "scolded" or "scolded" by the consumer. This is not simply due to a heightened awareness of consumer rights. This is because Japanese society has changed drastically during this period.

2️⃣The origin of the village society called Japan

This is from the 1946 classic of Japanese theory and cultural anthropology, "The Chrysanthemum and the Sword" by Ruth Benedict.

A culture of true sin does good based on an internal awareness of sin, whereas a culture of true shame does good based on an external compulsion. Shame is a reaction to the criticism of others. One feels shame by being ridiculed in public, by being rejected, or by believing that one has been ridiculed. In either case, shame is a powerful compelling force.

The Japanese are motivated by shame. Shame is the root of virtue. The supremacy of shame in Japanese life means that each person is concerned about public opinion of his or her actions. All they have to do is guess what others will judge, and they base their course of action on the judgments of others.

They say, "I have to be careful because the world is too noisy," or "If there were no world, I wouldn't have to be careful". The endorsement of the reputation of the external world is perhaps unparalleled in importance in any other society. The Japanese place more importance on the gravity of the shame than on the gravity of the crime.

Throughout his life, being ostracized is even more frightening than violence. He is unusually sensitive to the threat of ridicule and exclusion, even when he merely has them in mind.

From an early age, one must be socialized by training, either voluntarily or forced by authority. This is oppression. The human being feels uncomfortable having his desires restricted in this way. He must make sacrifices. This inevitably evokes a feeling of rebellion in his heart.

Thus a duality is deeply implanted in his mind. And it produces tension.

They are afraid of their own rebelliousness, which they keep bottled up in their hearts, and they cover it up by feigning meekness on the upper side. They often dwell on trivialities to prevent themselves from being aware of their true feelings. They just mechanically carry out their daily duties, which are actually quite meaningless to them.

The tension thus created is very great. Such tension is a heavy burden on the individual. One must be careful not to screw up, not to let anyone criticize one's actions in a series of self-sacrificing acts. At times, they may act out of pent-up resentment and become extremely aggressive.

3️⃣Structure of the Prison Society called Japan

The Panopticon, a facility used to monitor prisoners, has circular cells with a guard tower in the center. The guards are able to check on the prisoners by looking around the circular cells, but they are designed so that the prisoners cannot see the guards in the tower. The guards then do not have to be in the watchtower.

 The prisoners cannot see the guards. Therefore, whether the guards are there or not, the prisoners are driven by the fear that they are being watched by the guards, who may or may not be there 24 hours a day. The prisoners are then aware that they are being watched at all times, and gradually begin to behave in a model prisoner-like manner.

As long as there is a system that creates this sense of "being watched," prisoners will become role models on their own. Without going to the trouble of forcing prisoners to become role models, psychological stress can be applied so that they will become such prisoners. This kind of power is used in schools, factories, the military, and everywhere else. ("The Birth of Prisons," Michel Foucault)

4️⃣The advent of the digital hyper-surveillance society and the weapon (insanity) of social networking

In the 1990s, when the Internet became widespread and coincided with the democratization of the world, it was a symbol of freedom and hope. However, after the introduction of SNS, modern people began to take pictures of their activities and publish them online. Private space becomes public online, and the distinction between the private and public spheres disappears. Platform companies acquired large amounts of personal data across borders, and the "surveillance" of consumers by companies began. In the past, people tried to hide their thoughts in totalitarian regimes, but now they willingly expose them to the public. A mechanism of "civil obedience" has been established that draws totalitarianism to itself.

Originally, the detection, tracking, and monitoring of deviations from social norms and ethics were public acts of the ruling authorities against those who disturbed the social order. However, once inside the system of social networking where the many monitor the many, social media, which supposedly had no authority or responsibility to maintain order, created a system that automatically monitors and eliminates deviant individuals based on subjective and self-serving justifications such as morality and ethics. (1189)(1190)(1191)

If we were to be cut off from the village, all we had to do was leave the village, but no longer is there any escape for us as long as we live.

5️⃣Super-surveillance society established by Corona

Corona made it easy for people to accept the intervention of public authority in the form of state surveillance and isolation of individuals in exchange for their lives. People assumed, whether they intended it or not, that their virtue to the world was the self-sacrifice of providing their own personal information, restricting their behavior, and isolating themselves according to the authority of the government. At the same time, it was the easiest act one could perform to escape shame.

Moreover, there was a great experiment in the use by public authorities of a system of surveillance of the masses by the masses. Delays in updating information and making decisions were the norm for public health directives by the government. Nevertheless, it was certain that if only the public authorities could throw a loud order into the system of mass surveillance, the young and other people with immature egos would be the first to be subjugated. Spilling over from there, the mass-mass surveillance system symbolized by the mask continued to operate automatically. It sought out deviant people who did not follow the instructions of the administration and tried to eliminate them thoroughly. It was easy for the public authorities to subjugate the entire society. (1192)

6️⃣Defensive actions of the mind to survive in a hyper-surveillance society

In order to survive, people, even without consciously realizing it, activate the defense mechanisms of the mind to avoid immediate anxiety and adapt to their environment. ("Handbook of Psychiatry for Clinicians of the Mind," Okonogi, Fukatsu, Ohno)
So, what kind of individual changes, such as these social changes, can be made by natural selection under the selection pressure of evolutionary theory, and what kind of individual changes are advantageous for survival in the game arena? What kind of mental structure should we evolve to best avoid the pressures and fears of a hyper-supervised society?

In the hyper-surveillance space by Anonymous, we must hide ourselves as quietly as possible. You have to be as shut in as much as possible. And when we go out in public, we must hide. This gives us the justification we could not have wished for: sanitary measures. Masks and hats were the perfect tools for hiding and monitoring the masses at the same time as hiding from super-surveillance, a necessity for survival.

And to be as inconspicuous as possible, to not express oneself, to not make one's presence known. The absence of a self is a better way to avoid stress and anxiety, because the very existence of a self but the absence of self-expression is stressful to oneself. Therefore, the development of the mind to establish the ego or self is unnecessary or even detrimental to survival, and the more immature it is, the more favorable it is. If there is already a self, it must be stifled by repression and tucked away out of sight.

A consistent ego is rather a hindrance to hiding because it establishes the self and at the same time makes its presence known to itself and to those around it. It is easier to avoid the horrors of a hyper-supervised society if one abandons independence through the rational ego and falls into the mental regression of cessation of thought.

The best choice is to shun the clash of personalities, which is not to be sparked violently by each other. It is best to avoid the clash of personalities, and to avoid the deep personal relationships, to be in tune with others, and to play one's own role.

7️⃣Schizoid personality change for survival of the fittest

Okonogi proposed the schizoid human as an adaptive style. Schizoid humans tend to be withdrawn, with little consistent ego and avoiding deep personality interactions.

Until the early 1990s, they tended to be isolated and marginalized, unable to adapt to society. Then came the added social selection pressure in favor of schizoids: the increase of interpersonal relationships via the Internet and the dilution of face-to-face interpersonal relationships. Whether the digital hyper-surveillance society that emerged thereafter was brought about by them or because it was expedient for their survival, the schizoid population has reproduced exponentially in the 21st century, especially spreading to every corner of the current generation of the working population.

At the root of the schizoid human is a sense of omnipotence and greed. It is a self-centered omnipotence that feels that it must completely dominate the subject and make it its own. He is paranoid and afraid that if he does not do so, he will be beaten by the subject. There is the anxiety of being "engulfed" by the object, and at the same time, there is the anxiety of oneself "engulfing" the object.

To avoid this, they avoid deep personality involvement. Although they secretly desire intimate relationships, they cannot bear the anguish and grief of "object loss" when the relationship breaks down or they are forced to part ways. Fearing that their hearts will be hurt by the intense emotional movements that accompany a deep affectionate relationship that involves joy, anger, and sorrow, they keep their emotional expression within a standardized range.

Even before entering into a relationship, they have a sense of fear of losing their freedom or self if they become involved. They tend to shy away from romantic relationships and avoid socializing with their bosses to avoid the "fear of being subsumed.

They do not relate to or associate with others in a proper way, but rather try to maintain a superficial and appropriate level of sympathy, and have only temporary or partial relationships with others. They do not associate with others in terms of personality, but only as a means to an end, as a tool. They see the subject as only a means to an end and themselves as the subject, and in doing so, they do not lose their sense of omnipotence.

In the case of schizoid personalities, they simply become cynical, shutting themselves in and withdrawing altogether. The schizoid, on the other hand, adopts the method of synchronic seclusion. They are appropriately attuned to others and play their part. They avoid the troublesome situation of belonging deeply to a group and assuming responsibility, which could lead to trouble.

And while schizophrenia can lead to delusions, especially paranoia, the schizoid also tends, in his or her subjective mind, to believe that the object image, fantasy, or delusion that projects his or her internal emotions and anxiety is external reality, or to project his or her internal reality onto the external reality. In an attempt to protect their self-centered sense of omnipotence, they are paranoid and fearful that they will be engulfed and beaten by the object. He is extremely sensitive to being hurt. ("The Schizoid Man: A Search for the Inner Mother-Son Relationship," Keigo Okonogi)

The perception of being offended is extremely subjective. Being angry is a projection of the internal image of the receiver of the anger onto the external reality, so it is common for the receiver to feel that the other person is angry even though the other person has no intention of being angry with them.

In the interview structure of the doctor's office, which is full of tension and anxiety and prone to mental regression, the setting has never changed in the past, nor has it changed in the present, in which the internal image of the relationship between the strong and the weak is easily projected in the strongly asymmetrical interpersonal relationship between the patient and the doctor. Also, in general, doctors are more concerned about patients as consumers now than they were in the past. Therefore, the fact that patients seem to feel more and more angry during sessions in which the doctors do not intend to be angry at all means that there are more opportunities for patients to recall the image of a "self about to be absorbed" in their minds, in which they are ordered and subjugated in the hierarchy of the strong and the weak. This is especially true for those who are vulnerable to being hurt. This suggests an increase in the number of schizoid personalities who are particularly sensitive to their own vulnerability and prone to paranoid assumptions.

8️⃣Paranoia is the monopoly of the surveillance society, the mask can never be taken off.

Schizoid has become the standard personality of modern man, as predicted in the 70's. It means that each and every one of the average Japanese is becoming more and more paranoid in their interpersonal relationships.

This is a slight change that can only be detected after 30 years of long-term observation, and may be dismissed by those with schizoid personalities, who have already become the majority of the population, as a mere fabrication with little credibility due to memory bias. However, from the perspective of people 100 years ago, it seems that people today may well appear schizophrenic.

The phenomenon of increasing one-sided claims from buyers that have become a mass surveillance system in itself, regardless of the type of business, and the increasing care and exhaustion of sellers in fear of such claims, is not only a relative increase in consumer rights, but also a paranoid perception that is difficult to recognize, as if behind the scenes, it has become an overtly unregarded and unappreciated phenomenon. It seems as if the paranoid perceptions, which are difficult to be aware of, continue to proliferate in the shadows, sucking the lifeblood of those who are on the stage, without being taken into consideration.

Thus, paranoid cognition provides the evidence for a witch hunt to monitor and seek out, and is the very driving force behind the mass surveillance system. Paranoia is in fact an integral and inseparable part of the evolution of the super-surveillance society, and for this reason, an automatic proliferator, like an egg and bird relationship, is at work to further proliferate the schizoid humans who supply paranoid cognition.

The super-supervised prison society we live in will continue to provide the best model for observing the schizoid evolution of personality. The immature Japanese of the ego will not be able to take off their masks forever. We believe that the future society will continue to apply selection pressure in favor of personality changes that are even more pathological than those of schizoid humans.

(1189)

(1190)

https://www.seijo.ac.jp/education/faeco/academic-journals/jtmo420000001iji-att/234-1nicchu.pdf

(1191)

https://www.i-ise.com/jp/press/2019/201906sekai.pdf

(1192)


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