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連載『アラビア語RTA』#3

エジプト留学中の冬休み、1ヶ月間全くやることがなかった。この機会を使って、アラビア語の勉強をすることにした。雨の降り頻る冬のアレクサンドリアにて未知の言語にこれまで得てきた知識を使って立ち向かい、そして敗れた1ヶ月間の記録。

#1はこちら


2022年12月27日
 朝起きると、アラビア語の先生から一件の通知があった。

「風邪をひいたので、今日の授業は休みます。」

 思い返せば昨日の授業で何度かくしゃみをしていたし、目がうるうるしていた。ゆっくり休んでください、と思うと共に、宙ぶらりんになった1日を前に呆然としてしまった。前日の睡眠不足をすっかり解消したためやる気に満ち溢れていた。まあ、カフェで自習すればいいと考えて早速宿のすぐ向かい側にあるオールドストリートカフェへと向かう。

このカフェは、二階建てで主に席は2階にある。ソファー席が4つとゆったりと座れる椅子が置いてある席が7つある広い店内だった。多くの人は、コーヒーを啜り新聞を読んだり、朝からシーシャを嗜んでいた。シーシャは生活に根付いているんだなと実感した。

椅子へゆったりと腰掛け、例によって「ワヘド・シェーイ」というまるで2歳児のような注文をした。ここの店員さんは英語がわかるようだが、私がアラビア語で注文を試みるとにこやかに対応してくれた。40を超えているだろう彼女は研ナオコによく似ていて、声がハスキーだった。

「Do you need sugar ?」
「!أيوه」(エジプトアラビア語でYes)

アラビア語で答えると、”あらあなた、アラビア語できるのね”的な微笑をこちらに向けてくれた。

紅茶を飲みながらアラビア語を復習していると、斜め前に座っている立派な髭を蓄えた貫禄のあるおじさんが手招きしてきた。あまりにも怪しすぎるため最初は見えていないふりをしていた。だが、ここで一つの考えが浮かぶ。ひょっとしてこのおじさんは無料でアラビア語を教えてくれるのではないか、と。私はその人の向かい側の席に腰を下ろした。

「صباح الخير」(アラビア語でおはよう)
「サバハヌール!」

覚えたての挨拶をカタトコながらする。しかし、そこからしばらくの沈黙があった。何せアラビア語を学び始めて数日の私は何もいうことができない。自己紹介すらままならない。参った。彼は英語を解さないようだ。媒介言語がなければ言語を教わることはかなり困難だ。すると相手がごく簡単な英語でいくつか質問をしてきた。

「How are you?」

「What do you do?」

「How old are you?」

私はおぼつかないアラビア語で、

「メイヤ・メイヤ」(100/100という意味で、最高!というような意味)

「アナ・ターレブ」(私は学生です)

「アィシュリーン!」(20という意味。”歳”という表現も21という言い方も知らないのでこのように回答した。)

「ハウ・アバウト・ユー」
と聞くと、5という数字を手で作っていた。おそらく50歳という意味だろう。50歳のおじさん(見た目はかなりおじいさん)が平日の朝にカフェで一体全体何をやっているのだろうか。時刻は朝と言っても11時近かったし、おじいさんはずっとそこにいたようなのだ。ときどきかかってくる電話以外、特に何もしているようには見えない。

偏見かもしれないが、エジプトにはこのようなおじさんがたくさんいる。普通に仕事をしているような時間にカフェで永遠にタバコやらシーシャやらをプカプカやりながらゆったりしている。日本人の仕事や人生とは全くことなているなと感じた。それもそのはず、なんてったって日本から9000km以上離れているのである。9000kmといえば東京大阪間を9往復するくらいに相当する。そりゃ人の生活くらい違って当然だろう。

おじさんと話すことがなくなると、私はアラビア語のテキストを開いて勉強する。おじさんが話し始めると私はそれに耳を傾ける。おじさんの会話の内容は日常的なものから徐々に要領を得ないものへと変わっていった。時にGoogle翻訳を使いながら、

「地球は自然に存在していると思うか」

といった内容のことを聞いてきた。なぜそんなことを聞くのだろうか。さらに、

「この紅茶は誰が運んできたと思うか」
「この水やタバコはなぜここにあると思うか」

などと質問してきた。

「さーどうでしょうね?」と相槌を打っているとおじさんが、

「すべてはアッラーの導きである」

と、ものすごいドヤ顔で言ってきた。これだけドヤ顔で言われると本当にそんな気もしてくる。参った。ただただ布教されていたようだ。いや、これはもはや布教ではなく、おじさんにとってはただ真実を確認している作業のように思えた。

また同じような話を繰り返して、なぜかと聞かれたので、私は勢いで、

「アル・ハムドゥリラ」とつぶやいた。そしておじさんと握手した。

この言葉は直訳すると「神よありがとう」というような意味になる。エジプトで生活すると至る所で聞くことができる。何かいいことがあった時、How are you ? と聞かれた時、くしゃみをした後などとにかく色々なところで使われている。ロジックとしては、この世の全ては神が司っているので、何かいいことがあったら神に感謝しようというものらしい。

これを外国人である私が口にすると、年代によって以下のように反応が分かれる。

一つは爆笑。これは若い人たちに多い。大学内でこれをタイミングを見計らって言うと笑われ、喜ばれる。

もう一つの反応として微妙な空気になることもある。これは年配の人たちにに言うと「?」のような反応をされる。

仮説としては英語のFワードのように、若い人たちの間では意味が漂白され本来の言葉の重みを失っているが、文化的なものであるため外国人がいうと面白く感じるのではないか。この仮説で言うと年配の方々の反応でもわかる。

今回の状況で、この言葉を発したのはあまりいい判断ではなかった。おじさんの説法スイッチが入ってしまった。この後散々コーランの一節だろう小噺や有名な逸話などを滔々と語ってくれた。

そんな中で、考えたことがある。もし正則アラビア語を学びコーランの小噺やちょっとした表現を学んでおけば街の無礼者に対して極めて紳士的な態度で、かつ毅然とした態度で対応できるのではないかと思った。

ただ、現実問題としてこのおじさんと話していると全くもって勉強が進まない。この人が何を言っているのかわからないので学習にならない。せめて基礎だけでも勉強しておけばよかったと後悔した。

サンプル1なのでエジプトのおじさんが皆このようなテンションなのか、はたまたこのおじさんが人並み外れた信仰心を持っているのかについては定かではない。

場所を移して勉強するため、私はおじさんに半ば強引に別れを告げ、宿へと戻った。私は前日、友人の母にいただいたコシャリをいただいた。これが信じられないほど美味しかった。まず、玉ねぎはフライではなくほとんど黒くなるまで丁寧に炒められていた。トマトソースは水分がかなり飛んでおり旨味が濃縮されていた。全体的にピリッとした味付けで、かなり美味しかった。旨味が爆発したような味だった。

その後はアラビア語の勉強を試みたが、全く集中できなかったため海岸を歩いていた。そこでローラースケートで遊ぶ子どもに話しかけられた。この時に限らずアレクサンドリアの街を歩いていると色々な人に話しかけられる。セールス目的の人が大半だが中には純粋な興味あること人や、お金をせびる人、日本語を勉強したい人などひっきりなしである。

特にカメラ片手に希望に満ちた表情で歩いていると色々な人に話しかけられ、あたかも自分がBTSのメンバーにでもなったような気分になれる。逆に死神に取り憑かれたような顔をしていると誰にも話しかけられることはない。

海岸で子どもに話しかけられて非常に申し訳なく思った。キラキラした眼差しで私という異邦人を見ている子供の期待に全く答えられなかった。矢継ぎ早にされる質問には何一つ答えられなかった。申し訳ないと思いながらも、アラビア語がわからないことを「ラ・アラビー」(NO・アラビア語)と言って私がアラビア語ができないことをなんとか伝えた。

ここで次の目標が生まれた。注文の次は子どもの期待に応える。アレクサンドリアの海岸は陽が傾き始め白みがかった赤と青のグラデーションを空に描いていた。うっかり日本に残してきた恋人(存在しない)に想いを馳せそうになった。

この日もアラビア語はあまり進まなかった。

編集後記
私の宗教観を一言で言うと、「信じたいものを信じればいい」のようになると思う。ディズニーランドをイメージしてみよう。宗教を信じるということはつまりディズニーを夢の国と信じ、そこで与えられた枠組みの中で全力で楽しむようなことだと思う。本人たちが本気でそう思っていればそれは本当だと思う。

人が信じている宗教をとやかく言うのは、ディズニーランドは所詮は建造物だとか、ミッキーの中には人が入っているとか野暮なことを言うのと全く同じだと思う。それは野暮なのだ。サンタクロースはいると思っている方がいないと思うより幾分か幸せな人生を歩めると思う。

個人的にセム的一神教の考えはあまりにも自分が生まれ育った環境や価値観と相反するためそれを信じることはできない。聖典をいくら読んでもフィクションにしか思えない。だからと言ってそれを否定するわけでは全くない。そこには大きな違いがあると私は思う。

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