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連載『アラビア語RTA』

エジプト留学中の冬休み、1ヶ月間全くやることがなかった。この機会を使って、アラビア語の勉強をすることにした。雨の降り頻る冬のアレクサンドリアにて未知の言語にこれまで得てきた知識を使って立ち向かい、そして敗れた1ヶ月間の記録。


2022/12/25

朝、雷の音で目が覚めた。エジプトとは思えない大雨で道路は至る所が水浸しになっていた。地中海に面したここ、アレクサンドリアでは冬になると雨が降るのだ。今日の雨足はかなり強い。アラビア語学習の1日目にこれほどまでにふさわしい日もない。

授業は朝の10時から。起きたのは9:30。急いで準備をし教室へと向かう。滞在しているホテルは語学学校と提携しており格安で泊まることができ、学校までは歩いて2分くらいしかかからない。大雨のため道路は冠水し、地元の人たちは木の板を渡して橋の代わりにしていた。ひょいひょい渡っていく地元の人々に混ざって、私も学校へと向かった。

学校は古ぼけた建物の(エジプトでは大抵の建物がイギリス占領時代からのものであり古ぼけている)2階にある。ドアを開けると、前日までメールでやり取りしていた語学学校の職員と初めて対面した。ヒジャブを被った笑顔が素敵なエジプトの中年女性だった。挨拶を英語で済ませると、先生を紹介された。

二十代半ばの先生は肌色のヒジャブを巻いていた。目元がくりくりとしていたのが印象的だった。早速教室に案内され授業が始まった。教室にはファミレスの6人がけほどのテーブルが置いてあり一対一の授業にしては少し大きく感じられた。先生が座った側の壁には大きなホワイトボードが用意されいてた。よくあるタイプの語学学校だと思う。

はじめに、自分が知っているアラビア語を全て伝えた。この3ヶ月ニューカイロにあるキャンパスでの生活で身についたのはたったこれだけだった。

シュクラン!(ありがとう)
マッサレーマ(ばいばい)
ハラス!(おしまい!)
ワヘド(数字の1)
タラタ(数字の3)
ハムサ(数字の5)
サヴァ(数字の7)

3ヶ月も暮らしていてこれしかわからない自分に軽く絶望すると共に、わかったのは語学は行くだけでは身につかないという当たり前の事実だった。毎日英語で授業を受け、英語で友達を交流している限り、エジプトにいたとしても魔法のようにアラビア語はできるようにならない。

私は1,3,5,7,20,28,50という数字だけはわかった。これはニューカイロのクアンパスでご飯を買おうとすると番号を渡され、アラビア語で呼ばれるので周りの人に聞きながら覚えた。また、水は3エジプトポンドと5エジプトポンドのものがあるので覚えた。他の数字も自分が日常的に使うものだけ覚えていた。

そんなわけで自分の言えることを全て伝え終わると、アルファベットの授業が始まった。そう、あのアラビア語特有のニョロニョロである。

アラビア語学習が一番初めに苦しめられるのはこのアルファベットである。まず、どこが一文字かわからない。例えば、アラビア語でよく使われる挨拶があり、以下のように表記する。

السلام عليكم

アッサラーム・アレイコムと読む

アラビア語は常に筆記体であるため、文字同士を繋げて表記する。つまり見分けるだけで相当難しい。また同じ文字でも、単語の一番最初の文字か、間か、一番最後かによって形が変わる。これも初学者にとって難しい原因となっている。これを一つ一つ学んでいくのがアラビア語学習の第一歩になる。

さらに、アラビア語は日本人にとって発音が相当難しい。まずアラビア語には28の子音があり対して日本語には13個しかない。私は個人的に英語と中国語の発音に精通しているが、それでもいくつかの音は全く聞き分けがつかなかった。

初日、特に訳が分からなかったのは

ع と  غ
ح と  خ
س‎ と ص

などの違いである。初めて聞くと、面白いほど同じような音に聞こえる。運よく違いがわかったとしても、どのように音として発していいのか皆目見当もつかない。特に一番最後の二つなど本当に同じ音のようにしか聞こえない。先生は私をおちょくっているのだろうか。

「音の”強さ”が違うのよ。ソフトな音がسでハードな音がصなのよ。」先生が実例を交えて何度も説明してくれる。

「わかりません。どう頑張っても聞こえません」私は正直に告げた。

「最初はそんなものよ。ゆっくり少しづつ(シュワイヤ・シュワイヤ)。」

ただ私は、発音は学ぶことをができるという事実を経験から学んだ。初めて真剣に英語を学んだ際に、自分はもうすでに15歳だった。インターネットには小さな頃から繰り返し練習しないと耳が劣化しているため上手くならないというような情報が溢れていた。それは一部正しいが、だからといって勉強できないわけではない。

確かに大人の耳になってから、聞いたものをそのまま再現するのはかなり難しい。これは才能の部類に属すると思う。しかし発音とは結局のところ、口や喉などの筋肉をいかに動かすのか、歯や唇をどのように動かすのかということにすぎない。Aという筋肉を動かせばBという音が出るという論理を学べば大人になってからでもネイティブ並みの発音をすることは可能である。

私は先生と二人で手鏡と、口の断面図の動画を使いながら根気強く練習した。それでもいくつかの音は発音できなかった。1日でできるようなものではないのは、始める前からわかっていた。

今日の授業は簡単な挨拶とアルファベットの書き方、読み方を抑えただけで終了した。授業時間は2時間だった。

できるだけ早くアラビア語を勉強しよう!というモチベーションで始めたこのRTA(リアル・タイム・アタック)としては授業が2時間というのはまずい。もっと勉強しなければならない。このペースで進むと30日後に多少アラビア語で挨拶のできる阿呆が生まれてしまう。それだけはなんとしてでも阻止したかった。

言語をしっかり勉強するのはこれで3つ目である。他にも短期的なものの合わせればすでに4つくらい学習したことがある。そうなると自分の中に方法論のようなものが出来上がってくる。何度も挫折を繰り返し、その中でたまに上手くいくことがある。その経験から少しだけ語学が上達する。

RTAを冠しているため、授業が終わるとアフワへと向かう。アフワとはアラビア語エジプト方言でコーヒーを意味する単語で、コーヒーだけでなくコーヒーを飲む場所、つまりカフェも指し示す。しかし、高級なコーヒーやケーキなどが出てくる室内の店はエジプトでもカフェと呼ぶ。アフワと呼ばれるのは、大抵が屋内だが壁もドアもない開放的な作りになっており、おじさんたちが致死量の砂糖が入ったトルココーヒー片手にシーシャを燻らせている庶民的な空間となっている。

私はこのアフワが大好きで、留学中毎日のように通っては甘すぎる紅茶片手にシーシャを吸っていた。

アフワに到着するといつもとは違いアラビア語での注文を試みる。授業の最後に紅茶の注文方法を習っておいたのだ。しかし、元来の人見知りと記憶力不足が祟って、結局以下のように注文した。

「ワヘド・シェーイ」

ワヘドは数字の1、シェーイは紅茶を意味する単語である。日本語に直すと店員さんに、「1、茶」といったようなものである。それでも小柄なアフワのおじさんは笑顔で対応してくれた。アジア人がアラビア語を話すのが珍しいのだろう。私は、アラビア語を学び始めてよかったと思った。



編集後記
この日記をノートに書いてから約10ヶ月が経過した。今は留学を終え日本の大学で授業を受けている。この当時は、エジプトで語学学校に行くことはある種の必然に思えたし、自分のしていることは当たり前のことのように思えた。

反省があるとするならば、アラビア語を学ぶモチベーションが希薄だったことだろう。私は、当時食べ物の注文や簡単な挨拶さえままならなかった。そのため、それができてしまった時に満足し、特にそれ以上の努力をしようと思わなかった。この後数日後に起こる事件を筆頭に、私はとにかく疲れていたのだろう思う。そんな人々の言語をなぜ学んでいるのか分からなくなってしまった時期もある。出国した当時は、人類学専攻としてアラビア語を習得しそれを使って何かしらの調査をしようとさえ思っていたが、そんなことができるレベルに自分が到達できるのには途方もない努力と時間が必要だとすぐに悟った。折れた心ではそれが精一杯だったと書くこともできるし、自分が未熟だったとも言える。

今の自分にできることがあるとすればそれは今学んでいる中国語を真摯に学び続けることくらいだろう。


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