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どこにでも住めるとしたら


私はエジプトに留学している。そこで、今自分の住んでいるところについて発表する課題が出た。クラスメイトたちはカイロの一等地にある3LDKの立派な部屋を借りていたり、小さいながらも綺麗な部屋を借りていた。驚くことに家賃を聞くと最大でも300ドル程度だった。

私が日本で一人ぐらしをしているときに借りていたワンルームの部屋が大体3万円くらいだったことを考えると、同じような値段でも土地が変わればこんなにも生活の水準が変わるのかと驚いた。

この記事では、今までの自分の経験を頼りに、自分が一体全体住環境に何を求めてるのかを考えていく。


現在の生活

そんなクラスメイトたちとは打って変わって、私は「サファリホステル」というカイロを訪れる日本人観光客で知らぬものはいないホステルに住んでいる。ドミトリーは一泊80エジプトポンド(350円くらい)で宿泊することができる。私はそこに一ヶ月5000エジプトポンド(2万円くらい)で小さな個室を借りている。というと聞こえはいいが、設備は古いし、共同のキッチンは汚いし、マットレスは黒いシミだらけだし、枕は元々白だったはずが現在では焦茶色に成っているといった、それはそれはロックな環境である。掃除も行き届いてないし、そもそもカイロは砂埃もえげつないしで、住み始めて数日は咳、鼻水、痰が止まらなかった。私は2000エジプトポンドで掃除機を購入することを余儀なくされ、これで家賃は実質7000エジプトポンドと相成った。


入口
自室

そこまでしてなぜそこに住むのか。それは「日本人宿」という存在が自分の中であまりにも魅力的に思えているからだ。そもそも日本人宿とは厳密な定義はないが、大抵は海外にある日本人向けの安い宿泊施設のことである。そこには日本語の書籍や漫画がすらりと並び、従業員が日本語を操ることもある。まだインターネットが普及していない時代にはそこに行くことで他の旅人たちから直接情報を集めることができた。さらには宿に置いてある「情報ノート」を読むことで他の旅人たちが書き残したおすすめスポットや注意点などを知ることができ、また自分の持っている情報をそこに書き残すことで、他の旅人たちへ自分が知っていることを残すこともできた。


大量の日本語で書かれた本。最近カイジを読んだ。
90年代の情報ノート。役立つ有益な情報からびっくりするほど民度が低い記述までさまざま。

私にとって今でも時々訪れる日本人たちと話すことが何よりも面白い。日本からエジプトに直接来てそのまま帰る人は少数派で、どちらかというと世界一周をしていたり、地中海周辺を転々としていたりといわゆるバックパッカー的なスタイルで旅をしている人が多い。そんな人たちから旅の話を聞き、彼らの旅を追体験し、彼らの考えや哲学に触れ、彼らの論理を知ることが退屈なはずがない。

またエジプトという異国にいると、どうしても日本人が恋しくなる。授業は全部英語だし、街に出ればアラビア語で注文や簡単な会話を交わしている身からすると日本語を操る日本人の存在は貴重であるからだ。インターネットが普及した現在、日本人宿の需要はどんどん低くなっているように思える。実際サファリホステルにも週に2から3人程度の日本人が訪れるがそれ以外は他の国の人が多い。


日本での一人暮らし時代

コロナと大学入学がちょうど同じ時期だった。しかしもうすでに引っ越しを済ましていたので、一人暮らしをしながらオンラインで授業を受けていた。

部屋は典型的なワンルームで、小さなキッチンとトイレ、お風呂がついていた。そもそも狭い部屋が好きな私はそのシンプルな「箱」以上の何者でもない部屋を見て結構感動した。必要十分な生活以上を求めていない、というと何だか面倒な人間のようだが、ただ単に広くてものがいっぱいある部屋だと掃除が面倒だから狭い部屋が好きなのである。広い部屋だと寂寥感がえげつないという理由もある。平家で育った生粋の田舎者からすると、地上5階にあったその部屋はあまりにも私をワクワクさせた。

はっきり言って部屋自体に文句は全くなかった。残りの人生をそこで過ごせと言われても特に抵抗はしなかったと思う。しかしながら問題点は、友達の少なさにあった。大学では講義がオンラインで、サークルにも入るタイミングを逃し、学生団体にも入れず、授業で友達を作ることができなかった私は、そのまま鬱へまっしぐらだった。

一人暮らし2年間で得た教訓は、「人(俺)は一人では生きていけない」という至極当たり前のものだった。


高校の寮

今までの人生を振り返っても、高校の寮生活は指折りで楽しい時期だったように思える。今もう一度戻りたいかと聞かれれば絶対にお断りだが、ともかくいい生活だった。

簡単に言えば毎日が修学旅行の夜だった。二人部屋で風呂は大浴場、広い食堂があり食事はほぼ例外なくそこで食べる。寮のフロアにひとつずつ給湯器と電子レンジがあり、カップラーメン程度なら作ることもできた。毎日学校から帰ると友達と風呂に向かい、飯を食べ勉強した。それが終わるとどこかの部屋で集まり、その日得たばかりの未熟な知識をドヤ顔で披露し、歴史や宗教、生物、哲学、果ては恋愛の話まで侃侃諤諤の議論を交わした。またテスト期間になると、部活が休みになるのでここぞとばかりに夜ふかしをし、モノポリーやトランプに興じる。もちろん先生に見つかったら大目玉を食らうので巡回の足音が聞こえたら各々の部屋に戻ったり、息を殺してやり過ごした。

確かに楽しい生活だったが、一人の時間がほぼ皆無だった。学校から帰っても誰かいるという状態は長く続くとうざったくも感じる。その反動があり、一人暮らしをしたいなぁと漠然と思っていたのが上記の生活につながる。

この寮生活で得た教訓は、「ずっと人いると疲れる」ということだった。正直設備についての文句はそれほどなかったように思える。欲を言えばキッチンがあれば人生相当楽しかったとは思う。が、逆にいうとその程度である。


実家暮らし

私が実家で過ごしたのは、生まれてからの15年間である。今考えるとあまりにも天国だった。ほぼ何もしなくても生活ができた。母親は料理がものすごく得意で毎日ものすごく美味しいものを作ってくださった。また、寝る時間になれば、寝ることを催促していただけていたし、起きる時間には起きることを催促していただいていた。宿題をやったかの確認なんぞもしていただいていた。大学生になって思うのは、このころの習慣が何よりも大切だということだ。一人暮らしを始めると間も無くこれらの習慣が崩壊していく。睡眠は乱れ、食事は不規則になる。


まあ当然当時はそんなことわかるはずもなかった。一足先に反抗期を迎えた兄が毎日のように親父と喧嘩している姿を見て、こんなことにエネルギーを割きたくないな、と思ったのが家を出ようと思ったきっかけである。当然中学生時代は意味もなくむしゃくしゃしていたので相当親に迷惑をかけた。それを高校生になってまでも続けたくなかったのだ。家を出ると不思議なもので親が反抗の対象から一気に感謝の対象にかわった。中学から寮に入っている同級生のほとんどは反抗期を経験していないというのにも何となく納得できる。

実家生活から得た教訓といえば、「近くにいると家族はめんどくさく感じるが、遠く離れるとありがたく感じる」ということだ。

ダハブ沈没生活

ちょっとした例外として、ダハブでの1週間をあげたい。冬休みにアレクサンドリアでアラビア語の勉強を一ヶ月したあと休暇としてダハブへと向かった。


Google Mapより


ダハブには、大げさに言うとレストランと宿、そして海しかない。絶望的にやることがないリゾート地では心ゆくままリラックスすることができた。毎日朝起きて、飯を作って食べて、写真を好きなだけ撮って、そこであった日本人としゃべって寝る。たったこれだけだった。1週間はあっという間に過ぎ去った。

ここで得た教訓は「やることがないのは素晴らしい」

どこにでも住めるとしたら

どこにでも住めるとしたら、私はどんな場所に住むだろうか。理想の条件を上げていく。


①部屋は狭い方がいい
②人と適度に関わりたい
③たまにはリゾート地に行きたい
④たまには実家にも帰りたい
⑤気候はカラッとしててくれ


私の理想の住環境としてはやはり人との関わりが重要である。適度に新しい考えに触れその人の人生に迫ることが、広い部屋よりも、ふかふかなベッドよりも、アイランドキッチンよりも、電子レンジよりも自分にとっては価値がある。また、しょっぱいものを食べた後の水が甘露なように、日常の生活のレベルが低ければ低いほど休暇を満喫することだってできる。

そう考えると、私は将来サファリホステルに舞い戻ってしまうかもしれない。恐ろしいがそんな気がしている。









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