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すきなもの

私は、自他共に認める多趣味な人間である。
今回はすきなものとその理由について書きたい。理由は、時折りすきだったものを忘れ、気力を失うからである。その時のために書いておきたい。また、さまざまなことをすきだと言える自分自身に自信を持ちたいため、書いておきたい。
そして、すきなものとその理由を知ることは、自分自身の特性を知ることにつながると考えている。

私がすきなもの
読書、絵、バイク、車、川、洋服、模様替え、釣り、旅、洗濯
他にもたくさんあるが今回はとくに好きな上記の10点について書くことにする。

📕読書
これは一番長期にわたって私の生活に影響を及ぼしてきたものである。
はじまりは幼少期、母が就寝前に必ず絵本の読み聞かせをしてくれたことである。その時間は私にとってとても大切な時間であった。現実を嫌う傾向にあったため、絵本の中の世界を想像する時間がとてもすきであった、愛情を感じにくい子供であったため母の愛情を一心に受け取っていると感じられることが可能なその時間が、とてもすきであった。また、小学生になった頃には祖母がボランティア活動として行っていた読み聞かせに参加し、最年少者として地元の新聞に載ったりした。ここで、読むことの面白さと、読むことは自己表現の一種であることを知る。
それ以降自分で本屋に通い本をたくさん買って、たくさん読んできた。本を読む時の音も、すきである。どんな場所にいても周りの音が静かになる感覚がある。ページをめくる音に集中する。読み終わった後の感覚もすきである。しばらくその本の雰囲気の中に生きている気がする。
私は知的な印象に好感を持つため、本を読んでいる自分がすきなんだろうなと考えている。

🖼️絵
これは以前書いたノート(絵と言葉のちがい)を読んでいただきたい。


🛵バイク
私が初めてバイクに乗ったのは、16歳の頃。高校中退後、移動手段がどうしても必要になり原付免許をとった。初めて乗った時の感覚は今でも覚えている。乗り物と身体が一体化しているようだった。よく使う表現だが、風になったようだった。私は自転車に乗れたのが小学校中学年頃で、とても運動神経的なものが悪いのだが、バイクははじめて身体を使うことに楽しさを感じさせてくれた。
その後大阪で生活した期間は、バイクのことは一旦忘れることになるが、地元に戻り、再びバイクに乗りたい気持ちが増し、普通二輪免許をとった。やはり原付とは全く異なっており、一体化する感覚になるために、結構な時間を費やしている。まだ一体化したような感覚になれるときとなれないときがある。しかしそれがまた、何度も乗りたいと思える理由となっている。
時間を費やしている分、その感覚が得られた時の喜びも大きい。
そして、死ぬ可能性が高まる時間が生まれることも、好きな理由である。私はジェットコースターが苦手だか、それをすきなのとはまた違う。ジェットコースターは死なない、安全に作られているから、死んだとしても、怪我をしたとしても、それはその遊園地の責任である。バイクは違う。自分自身の責任で死ぬかもしれないし、怪我をするかもしれない。それはとても楽しいことであり、生きていることを実感することにつながる。また、あまりよい使い方ではないかもしれないが、イライラや怒りという大きなエネルギーを消化させることにも役立つ(変な走り方はしていません!)。暴走族の気持ちも、少しはわかる気がする。
また、バイクは単純にカッコいいのだ。二輪で走り、車よりも無骨な、また生身な感じが、どうしたってカッコいいのだ。
サングラスをつけ、ヘルメットを被り、バイクのエンジンをかける瞬間、周りからどう見えていようと、私ってば、カッコいいじゃないかと思えるのだ。
ということで、わたしは、カッコいい印象の自分も好きなようである。


🚗車
これは、乗り物という点ではバイクと同様の理由ですきである。しかし、バイクとはまた違った良さがあるのだ。車という空間が作り出す雰囲気がとてもいい。例えば、他の場では言い出しづらいことも、車の中だと話せたりする。みなさんもあるだろうか。そして私は助手席ではなく運転席が好きである。話に集中しすぎないので、言葉が出てきやすい。私はジムニーに乗っているのだが、車内がかなり狭い。その狭さもなんだか落ち着くのだ。昔クローゼットの中で眠るのが好きだったが、それと同じく、車をとめて、車の中で眠るのが心地いい。私は基本的に薬がないと眠れないが、暖かい日に車の中でぼーっとしていると、ついうたた寝してしまう。
カッコよさは言うまでもないが、私が好きなタイプの車を紹介しておく
丸目、ボディは四角、大きなタイヤ、高い車高
あまり車に詳しいわけではないが、こんな感じの車はだいたい好きである。無骨な外見と、険しい道を進むために作られたその構造に、なんだかドキドキする。その割に丸目なのがキュートで、ギャップ萌えする。
逆に、車は車でもいいなあと思わないのが、地面スレスレを走る平べったい車である。よさが理解できないので、心底愛している人がいたら訳を訊いたりするが、やはりかっこいいから!と私と同じようなことしかきけない。


🏞️川
川は、昔から好きである。よく父と弟と、魚をとりに川へ行った思い出がある。
私は、仏教がすきなのだか、川は諸行無常をとても感じさせる。満ち引きするだけの海とは違い、絶えず流れ、移り変わっていく様子が目で見えるからである。もちろん海も、いや全ては移り変わっているのだが、それを感じ取りやすいのが川なのである。そして川の流れに沿って削れたであろう石もまた、その川との関わりの中で生まれたものだということが目に見える。その石を見ると、とても愛おしい気持ちになる。
また、川の音も、移り変わっていくことを感じざるを得ない。
わたしの様子を知っている人ならわかると思うが、わたしは疲れているときや、なんとなく気怠いときには川へ行くようにしている。それはやはり、移り変わっていくことを知れるからで、自分自身もまた、絶えず移り変わっていくのだから、実態などないのだから、、と考えられるようになる。

川がすきなのは、仏教をすきなことに由来している。仏教については、随分長くなりそうなのでまた別で書くこととする。


👔洋服
洋服がすきなのは、わたしが気分屋であることから来ている。
洋服を身に纏うことは、気分を纏うことだと思っている。
わたしは香水もすきでたくさん持っているが、それも洋服と同じ理由である。
大元として、わたしの気分にはオトコと、男の子、オンナと、女の子この四つがある。
これらの気分は割と長期的に継続するもので、去年一年では、オンナ、女の子、オトコ と変化している。
現在は女の子と、男の子の中間で、女の子の方が強い。
そしてその大元の気分と、その日、その時の気分を合わせたものが洋服選びに反映され、服装となる。
このように気分を反映させ、強化することもできるが、逆にある気分を抑制することも可能なのが洋服をすきな理由の最たるものである。
例えば、なんだか気分が上がらないとき、怠けた気持ちのとき、ピタッとしたデニムに、パリッとしたシャツを着たらどうだろう。わたしはなんだか少しだけシャキッとする。
他にも、頑張りすぎているとき、休みたいのにこころが言うことをきいてくれないとき、ダボダボのパーカーに、綿100%のゆるっとしたパンツを履いたらあら不思議、だらっとした気分になるのだ。

このように、感情や気分を操るのが苦手な私にとって、洋服はすこしの助けをしてくれる。洋服の力で解決しようもないこともあるが、その小さな助けを、自分が自分にしてあげられるのが私が洋服をすきな理由である。



🏠模様替え
模様替えも、洋服をすきな理由にかなり近い。
しかし、もっと大きな気分の変化を起こしたいときにすることが多い。わたしは、これまで生きてきた中で約3年に1回くらいのペースで引越しをしている。そのため、住む場所が変わった時の気分の変化について大変よく理解していると思う。
本当は引っ越したいけど、そうはいかないときに
部屋の中にあるものの配置をガラッと変える。時には大量に家具を買い、大量に捨てる。そうすることで、同じ部屋の中でも自分がよくいる場所や、よくする体勢が変わることになる。
部屋の中での動き、動線も変わってくる。
すると不思議、考えることや、悩み事も変わってくる。
また、模様替えには大きなエネルギーを使うため、それ自体に集中することで、他のものから逃げる時間をつくれるという点も模様替えがすきな理由である。

🎣釣り
わたしがすきなのはバス釣りである。きっかけは、父が熱烈にバス釣りをすきで、幼少期からよく連れて行かれていたこと。
父はバス釣りのために船を2台も持っている。その船はギャンブラーという会社のものなのだが、釣りはギャンブルに似ている気がするので、わたしはそのギャンブラーという名を気に入っている。バス釣りにも、テクニックや、どの道具を使うかなど、いろいろあるらしいのだが、わたしはギャンブルとして楽しんでいる。
「今回は大きいの釣れるかな」このワクワクがわたしはとてもすきである。わたしにはテクニックもないし、道具を選ぶだけの知識も持っていない。それゆえに、釣れるか否かは完全なる運でしかないと思っている。これはスロットの感覚に似ている。投げて、巻いて、あたったとき、ドキっとする。わたしは、ギャンブルがすきであるが、スロットではなく釣りをすきになったのは、単に聞こえがいいからという理由だけではない。
船の上で過ごす時間が、とてもすきなのである。ゆらゆら浮かびながら、取り留めもないことを考えてあたりを待つ時間、道のない水の上を颯爽と駆け抜ける時間、トイレに行くためにスレスレのところまで船を近づける時間、陸の上でするなら大したこともない時間が、なんだか特別になる。


🚃旅
旅がすきな理由は実に簡単で、知らないことを知ることがすきだということに由来している。
生活から離れて知らない街を歩くとき、いろんなことを知る。その街のことや、その街で生活する人のこと、一緒に旅をした人のこと、それから自分自身について。
旅をすることは、知らないことを知ることである。
特に海外への旅では、いろんなことについて知ることができる。
しかしわたしは、旅の計画はあまり好きではない。計画とは私にとってかなり負担のかかるものであり、もしも自分で計画を立てたりすると、その通りに進まないと気が済まなくなってしまう。これは、勉強など努力すべきものが対象である場合優れた能力となるかもしれないが、旅においては余計すぎる。なので、ひとりの場合は、行き当たりばったり、一緒に行く人がいて、その人が計画を立てるタイプなら任せっきりにしている。
その方が、知れることは多いように思う。


🧺洗濯
洗濯は、わたしのなかで、一番人間の生活をしているなと感じられる行為である。本能的な欲望は動物も同じく満たしている。(わたしは食事も睡眠も、あまりうまくできないが)
しかし、洗濯というのは清潔であることや、容姿に関することなど、人間しか持ち得ない欲求を満たす行為である。
また、わたしは小学生の頃から洗濯をさせられていたため、その行為が人間の生活に不可欠なこともよく分かっている。
柔軟剤や洗剤を入れて、機械がぐるぐる洗ってくれる、それを取り出して、干す。この一連の行為にわたしは人間の生活を感じる。香りをつけることや、機械を使うということ、シワをなくすためにパンパン叩くこと、すべて人間ゆえ行うことではないだろうか。
もちろん他にもたくさん人間ゆえ行うこと はある。しかし一番身近で、一番それを感じやすいのがわたしにとって洗濯なのである。
また、ほかの誰かのものを一緒に洗濯をすること これはとても愛みたいなものを感じる。わたしはあまり経験がないが、洗濯を自分の分と一緒にしてもかまわないなと思える人(相手がどう思っているかは一旦抜きにして)は、やっぱり自分の中で大切な人である。同性でも異性でもそれは変わらない。わたしの選んだ柔軟剤や、わたしの家の洗濯機、わたしの洗濯物の干し方これらを否定しないと予想される人にか、そうは思えないはずだから。



以上わたしのすきなものと、その理由でした。
わたしはすきなものが多い。それは素晴らしいことである。
あまり私のことを知らない人に「人生楽しそう」とよく言われる。「しにたい」と思うことが多いわたしなので、そうなのかなと、いつも疑問に思っていた。しかし、たしかにわたしは、色々なことを楽しむ能力に長けているのかもしれない。しかし、それを忘れる能力もどうやら長けているようである。
「しにたい」などと考える前に、わたしがすきなものと、その理由を思い出すようにしたい。



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