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「ドキドキの日々」に憧れて。

日本のイラストレーターの草分け的存在だった和田誠さんの、若かりし頃を綴った自伝『銀座界隈ドキドキの日々』を読んだ(こうやって書かないと、和田さんについて今の人たちに伝わらないのが残念だ)。

おもしろおかしく読めるのは、前半部分まで。1960年代中頃からはクライアントの存在が大きくなっていく様子や、評論家の悪態など、さびしさが徐々に顔を見せはじめる。

ご本人も書いているように、時代が違うのだろう。
1960年代前半までとそれ以降とでは、人間も時代も大きく変わっている。
時代の変化を書いた部分を以下に引用した。

「こんなことをやろうと思うがどうですか、とクライアントにおうかがいを立てるのである。口で言うだけでなくスケッチを見せる。スケッチも丁寧なほうがシロウトにはわかりやすい。だんだん本番と同じようなものを作ることになる。そのうちクライアントは一案だけでなくA案B案出せ、こっちで選ぶから、と言い出すようになった。」
「レストランに入ってカレーライスとハヤシライスを出せ、うまそうなほうを食うから、と言うのと同じじゃないか」
「社会党本部の人から電話があり、長いことあなたがデザインしたマークを使ったが、そろそろ新しいものに切り替えようと思う、ついては刷り物に記録を残しておきたいので、マークを作ったいきさつを教えてくれないか、と言う。その人は若くて当時のことは何も知らないのだそうで、ぼくは8章に記したようなことを話してあげたのだが、刷り物は送られてこなかった。」

こういうことが普通な世の中になった。狂っていると思う。しかも、これに加えて、現代では皆、自分が生きることに必死だ。企業単位の売り込みが個人単位になり、無学で実力もないまま一芸があるように見せなければならない。しかも、生きづらさを抱えながら、皆これらを行なっている。

その先は崖しかないのに、歩みを止めずに、大勢で崖から落ちに行っているようなものだ。
流石にこれには嫌悪感を抱くので、なるべく現代の人たち「らしさ」からは離れるようにしている。

お陰様でうちの事務所を懇意にしてくれる人たちは、無礼な振る舞いはしないように心掛けてくれているが、この関係性は稀なケースだということを理解している。
僕が依頼主になるときに「お任せいたします」と言うのも、1960年代前半を作ってきた人たちからしたら、「わざわざ言うことでもないだろう?」と叱られそうだ。
お金を払って欲しいものを手に入れることが依頼なのではなくて、自分にできないことや足りないことをやっていただくのが依頼だと思っている。
だから、お伺いを立てるのは、依頼主である自分の方だ。

いつも「職業倫理」と「法人」の話で伝えていることだが、当たり前だった時代もあるんだよな。
考えてみると、御存命であれば80歳〜100歳ぐらいの人たちの生き方を、僕は参考にしている。
こうやって書くと、古臭いように感じるかもしれないが、クリストファー・ノーラン監督だって、劇中の物理法則について物理学者にお伺いを立てて制作していると言う。
さて、取り残されているのは、誰かな。

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