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「わからない」を通常に考えてみると

私は、子どもたちと関わりながら仕事をしはじめて約30年あまり。
子どもと接していることは、あまり得意ともなんとも思ったことがありません。なんの予見も持たないで話し続けています。
 つまり、子どもたちを常識も、社会的な価値や偉い人になることや、いい仕事につくことも求めていません。ある意味、自分で疑問を持ち、解決し続けることで成長できる学びを実現していったらどうだろうと思っています。私たちは、「話せばわかる」という文化にいます。この文化が非常に苦しいのは、わからないと言えないところにあります。
 私たちは、分かり合えないことがむしろ普通なのに、分かり合えるという前提で話し合いをされるとわからないと言えなくなってしまいます。私は、「あなたが言っていることがわからない。」と言えた方がむしろ気持ちはスッキリします。子どもであれば、大人たちはわからない事を前提に接してくれるので、わからないということが言いやすい。しかし大人になるとそうはいかない。全ては、わかっているという前提話を進めなければなりません。

残念なのは、

 わからないと言えない大人の方にあります。わからないと言った方が学べることも多いかもしれないのに。私たちは理解できない時に使う必殺の手段があります。「人のせいにする」という必殺の爆弾です。この爆弾を上手に投げ続けると、自分の無知が晒されないすみます。(代わりに学ぶことも少ないけれど)

人のせいにする爆弾を有効に投げ続けながら、シューティングゲームのように殺されないように生きてゆく。若者も老人も同じ構造の中で生きているのだとしたら、どちらも苦しいです。

苦しいと言えれば実は楽になる。

楽になれば、無知だと馬鹿にされると思い込んでいる。誰も馬鹿になんかしないのに。いま、私は海辺でこれを書いています。人は海をこえてわからないものを理解しようとしてきた。その膨大なる好奇心を、大事に生きてゆきたいなあと感じながら。私は、何もわかっていないと思われています。
 だから、何もわからない人に相対するときに、わからないという事を前提にしようと思っています。やがて、わかる時も来ればいい程度に考えると、心がすーっと楽になりそうです。

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