禁断のズカ

この間、ハウステンボスで、「歌劇 ザ・レビュー ハウステンボス」を観劇した。

「ハウステンボス歌劇団」は、女性だけの劇団で、かつ男性役と女性役がいて、それぞれにトップスターがいて、毎日ハウステンボスの劇場の中で演劇とレビュー(歌と踊りのショー)を提供している。

雑に説明すると、長崎ローカルの宝塚である。そして、宝塚と同様、「歌劇学院」を擁する。(ちなみに、観劇の翌朝、宿泊したホテルの窓から偶然、歌劇学院の生徒さん方の登校風景を目撃した。制服姿の若い娘さん方の、一糸乱れぬようでいて個々の想念が浮遊する隊列は、山伏行のそれも似て、なかなか胸に迫るものがあった。)


長崎で歌劇団の観劇をして感じたのは、いよいよ私は、宝塚を観劇するべきだということだ。


もともと私は、女性アイドルに着目し、観察することが趣味である。出会った場所がどれほど地下深く、提供された楽曲がどれほど救いなくダサく、さらに、そしてアイドル本人たちすら元来の目標をすっかり諦めていたとしても、これは!と感じたエネルギー体には応援を惜しまない。そして、彼女たちの光が世に放たれていくのを見届けると、子育てを終えたような気持ちで現場を離れたり、声援の頻度を間引いていく。これはある時期まで私のライフワークであったし、今も形を変えて続けている。


日本の誇るショービズシステムとして、宝塚歌劇団の存在を知らなかったわけでは、当然ない。では、なぜこれまで、興味を持たなかったか。手を出さなかったか。足を運ばなかったか。

理由の心当たりはいくつかある。

前提として、私は東日本の人間で、かつ周囲にズカファンが一人もいないため、環境的に身近ではなく、正しい情報が得られていないというのがありそうだと感じる。

しかし最大の理由はおそらく、私がステージに立つ人間に求める条件に、ショーアップの完全さを求めない傾向が強いためである。

女性アイドルも当然ショーの中に存在するが、技術が稚拙が故に、パフォーマンスに個人のパーソナリティが漏れ出る。彼女たちに意図的にあてがわれた色や役割を超えた、彼女が生来持つ個の輪郭がより明らかになる。私が着目する対象はその寸隙、その生々しさに発露するエネルギーなので、完璧なショーマンとしてトレーニングを受けてから舞台に上がる宝塚は、自分の趣味嗜好の方向性、コンセプトが異なると感じていた。

それ以外の事柄的な理由としては、応援の流儀が一般の女性アイドル以上に厳格なことと、ファンがほぼ女性で構成されていることという点。私は総じて、面倒くさいものが嫌いだ。また、もう少しぼんやりした、しかしおそらく核心的な理由としては「すごすぎて笑っちゃうけど、ほんとに笑ったらぶん殴られそう」という思い込みもある。


話がやや逸れるが、後段に挙げた3つについて、宝塚と同様のファンの性質を持つと感じるのはジャニーズのファンだ。私はあいにくジャニーズ事務所の特定のグループやタレントを贔屓に感じるに至ったことは一度もないのだが、それでも、ジャニーズのショービジネスとファンのオルグの手法については、一定の視座で観測している。ライブDVDを観れば世界観に感嘆するし、彼らの報道に触れる度、俗に「ジャニーさん」と呼ばれる人物の業について思いを馳せるが、「ファン」と名乗るには個人やグループへの愛が圧倒的に足りていない自覚がある。


閑話休題。

とにかく、今わたしは、満を持して、宝塚を観たいのだ。

さて、まずは、チケットを取ろう。

あなたに、かならず、いいことがあるよ