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「正論」では、人は動かない。

「正論」。正しい論理。筋の通った論理。

よくSNSで目にする言葉だ。「正論すぎる」「ド正論」など、誰かの言っている言葉に賛同する意味でつかわれることが多い言葉のように思う。

だが、正しいとは一体なんだろうか。正しさの中にはどんな要素があるのだろうか。「人を殺してはいけない」という議題ひとつとっても、どうして人を殺してはいけないのかということを説明するのはなかなか簡単なことではない。

ある時代においては、「神様がダメと言ったから」という理由で人を殺すことを禁じることがあった。聖書の出エジプト記などを見ればある。これは、「思考停止したものだ」と言う事もできることはできるのだが、私は非常に効果的な命令・ルールだと思っている。神様がいるかいないかという話はさておき、「人間以上の存在が決定した」というのだから、理屈はおいといてダメなものはダメなんだ。とあらゆる論理をつっぱねることができる。もっとも、聖書を読み進めていけば必ずしも思考停止の命令というわけでもないことがわかってはくるのだが、そこはまた別の話だ。

これはあくまで私の考えなのだが、「正しさ」には常に「感情」が伴っていると考えている。

極端な話をする。
昨今、「上級国民」という言葉もまたよく目にする単語だ。犯罪を犯しているにも関わらず適切に罰せられることがなく、なぜか優遇された人・・・と聞いて、頭に浮かぶ人間がみなさんの中にもいるのではないだろうか。

殺人は日本では法律違反だ。まずそこを前提にしておきたい。
しかし仮に、だ。上で述べたように、人を殺すなどの犯罪を犯しておきながら優遇されるような人間がいて、殺された人の遺族が、これを「敵討ちだ」として個人的に殺したとする。

この時私は、「やられて当然だ!」「よくやった!」と、言わないまでも思う人間が相当数いると予想する。だが、今日本で殺人がいいか悪いかを決めているのは「法律」だ。法律に照らされれば、どんなに「上級国民」が悪いとしても、敵討ちをしたほうが悪いことになってしまう。

人間が「正義」を決めると、こんな風にバグが起こる。「神様がダメと言ったからダメ」というルールに則れば、上級国民だろうがなんだろうが罰せられるのだが、良くか悪くか、人類の大発明である「法律」はこうした抜け穴を利用されるリスクを常にはらんでいる。

ここで、1つの主張を紹介しよう。

古代は神に頼っていた(とされる)人間は次第に自分達でルールを作るようになった。挙句の果てに、神は人類が生み出した虚構に過ぎないとか言い始めた。そもそも、これまで完璧な政治をしてきた時代などなかった。あらゆる法治国家は、どういう形かはそれぞれだが問題を抱え、栄枯盛衰、滅んだり衰退したりしていった。戦争という傷のあとに生み出された民主主義でさえ、終わりが見えてきたと言われる。人間に正解の政治など見つけられないのだ。神を崇拝していたころの姿に戻るべきなのだ。

過激さをはらんだこの主張は、ある意味正論と感じないだろうか?
そもそも人間には正解の政治など見つけられない。それはこれまでの歴史が証明していることではないか――。

ただ、これを正論と感じるか感じないかは別として、1つ読者に問うてみたいことがある。

めんどくさくね?

ということだ。
たとえば、「なぜ殺人をしてはいけないのか」という話題で誰かと議論になったとする。で、上で述べたような主張を朗々と語る。だが何人の相手が、「難しい」「めんどくさい」「うざい」と感じずに話を続けられるだろうか。

20数年生きてきたにすぎない分際でこんなことを言うのもあれだが、私は人間はそもそも「正しいか間違ってるかで動く生き物ではない」と思うようになった。それが行動基準なら、とっくに殺人はなくなっている。例えば「カッとなったから」人を殺す、「お金目的で」人を殺す、金を盗む。根底には「怒り」「金が欲しい」という欲望つまり感情が潜んでいる。これはもう断言してもいいと思う。人間は欲望で動く

かくいう私もこのnoteを書きたくて書いている。欲望の塊が、このノートだ。それはともかく、全人類が欲望で動くと仮定すれば、法律だって容易に「欲望で形が変わる」ということになりうる。それが、上で述べた上級国民優遇に繋がっている。優遇に加担する人達は「保身」か「金」か、何が得られるのかは知らないが、正しさではない何かで動かされている。断言してもいい。

私はこれまで、常に(論理の上では)正論を周りに振りかざして生きてきた。それは間違っている、それは無駄なことだ、こうするべきだ、こうしないと組織が潰れる・・・あらゆる人に、あらゆる分野に首をつっこんできた。だが、誰一人として私の意見を聞き入れる人間などいなかった。

なぜか。
私が人の本質を理解していなかったからにほかならない。

そんな正論は今聞きたくない、変化したくない、このままでいい。

そう思って、このままがいい!と思うその欲望を否定し、私が耳に痛いことばかりを言い続けていたからだ。
私の主張は完全に失敗だった。だから私は正論を言うのをやめた。実を言えば、相手の欲望を適度に満たしながら正論を言って少しずつ浸透させていき、正しい方向(であろう方向)に人なり集団を持っていくということは不可能なことではない。だが私とて完璧超人ではない。自分の理論が常に正しいとは限らないし、相手の欲望を満たすために自分の考えていることを抑えなければならないこともある。不器用なもので、私はどうしても先に思ったことを言ってしまうので簡単ではないのだ。
個人的には正論とは「痛いところをついてくる意見」でもあると感じているのだが、上述したように正しさだけでは人は動かない。

「痛い意見でも聞くのが名君だし、リーダーはそうあるべきだ」というのは会社でも政治でも声高に叫びたい「正論」だが、「そんな名君は数百年に一人のレベルでしか誕生しない」という主張もまたほんのり正しさを帯びている。

じゃあ、どうすればいいのか。打つ手はないのか。
ない。
そもそも、「正しくなくていい」のだ。それは、正義感を否定しているわけでも、正しくあるべきと思う事をやめたほうがいいということでもない。
ただ、正論をふりかざしていた私が行き着いたのはそこだった。
ただ、目の前にいる人をどれだけ大切にできるか。それは自分自身のこともだ。正しくない世の中に怒りを感じるのはもっともだが、それで怒ってばかりでは身体によくない。怒れば周りの人が委縮するかもしれない。

実は、そうした「目の前」を大切にすることをみんながやれば、必然的に社会全体がちょうどいい具合に心の余裕を持てるのではないか。心に余裕が生まれれば、また別の正しさが見えてくるのではないか。

私はこんなことを毎日考えながらプロ野球のスマホゲームにいそしみ、Youtubeで好きな配信者の生配信や投稿動画を楽しみ、毎日のように通っているパン屋でパンを買う毎日を送っている。正論の剣で戦っていた頃よりもずっと平和で楽しい。

自分の力を振り回さない、これもまた一つの正義の在り方なのだ。

「探し求める正義」

私がワンピースの海軍大将なら、そのキャッチコピーが部屋に掲げられていることだろう。

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