目的さえあれば無能ではなくなる

ここまで、三人の世渡り上手を紹介してみた。
筆者も世渡り上手にカウントしていただけるなら、四人だ。
もっとも、私が出会ってきた中での話なので、皆さんの中にも「あの人は本当に世渡り上手だ」とおもえる人が一人はいるかもしれない。
全員、目的は違っただろう。「生きていける立ち位置の確保」「人気を保つ」「世間体を保つ」「別の道を切り開く」「アイドルの応援をする」といった具合に、進路も皆バラバラだ。しかし、全員がまず大前提として生きることを目的としている。その上で、どう生きていくかというのも明確になっている。そうした「前提」の積み重ねの次の段階で、では、どう世を渡るかというのがひっついてくる。例えば、ブラック企業に使い潰されたり、いいように使われてしまっている人というのは、往々にして「生きる」というところまでは行っているのだが、その次のどう生きていくか、という部分が抜け落ちている。だから、世渡り上手とか下手とかいう領域までそもそも行っていない人の方が多い。
どう生きるかというのは、ある種信念のようなものだ。世の為人の為、でもいいし、宗教があるなら神様仏様の為、でもいいだろう。親孝行がしたい、という気持ちでもいい。それからそれを掘り下げると、「身体が資本」というところに行きついて体を大事にする行動をとるようになるかもしれない。そうすれば、無理な残業はしない方向に自然と舵を切る。「家族が大事」というところに行きついても同様だ。

「MtoP教団」という存在があるのを多くの人は知らない。インターネット発祥の新宗教らしいのだが、飲み会を断ったり、何かの大義名分のために利用する宗教ということで人を集めている宗教だという。勿論これは極端な例だが、そうした何かしらの”ステータス”は時に身の守りになることはある。家族を持つということにしても、当然保身のために子供をつくったり妻を持ったりするべきではないだろうが、家族の為に無茶な要求を断ることができるというのは事実だ。だが今あげた新宗教の例をあげるならば、そういう組織ができて成立するという事の裏には、「そこまでしないと断れない人がたくさんいる」という悲しい現実があることを明らかにしている。

前項で、日本の学校は閉鎖的な空間だという点に触れた。その閉鎖的な空間の中では、教えられることも限られてくる。世渡りの術を教えてくれる人間などいない。だから、こういうエッセイが書ける。天性の上手さを持った人間の巧妙さが私の目には目立つからだ。世渡り上手=有能というわけではない。たとえ能力が低くても、何かしらの目的をもち、掘り下げ、時に人の知恵を借りたり真似したりして趣向を凝らせば、たちまちその人はもう「無能」ではなくなり、「有能」と人が錯覚するような立ち位置に滑り込むことだってできる。人生工夫したもの勝ちというメッセージが皆さんに少しでも伝われば、幸いだ。

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