見出し画像

ハチワンダイバーにおける将棋の立ち位置

マンガの話
『ハチワンダイバー』を読みました。
かなり特殊な漫画でした。競技的なイメージの強い将棋をテーマにした作品にしては異色の暴力が扱われ、作中では将棋と暴力の並置が行われています(『三匹の鬼』の「将棋か暴力か」というフレーズは典型)。
 特筆すべきは暴力を背景とした儀礼的闘争としての競技ではなく、暴力と競技を併置させる魔術的リアリズムな世界観になっていることです。


将棋そのものが執行力

 ハチワンダイバーには負けたら死ぬ取り決めの対局がいくつか出てきます。しかし、立会人はおらず、細かい取り決めがなく、対局終了後にその実行を担保するであろうものは何もありません(そもそも脳内将棋だったりする)。たとえ将棋に負けても「ノーカン!」といって相手を気絶させたり、殺して約束を無かったことにしてはいけないのでしょうか? 将棋は絶対なのでそんなことは行われません。
 将棋で負けた者は暴力で負けた者と同じく、物理的な強制力によっていやおうなく敗北を認めさせられ、そこから逃れることはできないという奇妙な法則が『ハチワンダイバー』にはあります(「将棋は絶対」。例外は負けたら死ぬ対極でなぜか負けたけど死んでないマムシ)。
 つまり将棋に負けたら自分から敗けたことを認める世界であり、将棋というゲームのお行儀のよさを表しているのかもしれないとちょっと思いました。近い立ち位置の競技でも麻雀は全然そんなことはありません。

麻雀における暴力

 ゲームは審判がいなければ成立しません。当事者だけの脳内将棋で物事が決定されるならそれはもはや儀礼です。究極のギャンブルにこそ究極の暴力が必要とされることを最初に明示した作品は「嘘喰い」でしょう。行われるのが究極のギャンブルなのだから、その後ろ盾もまた究極でなければいけない、というわけです。これを暴力的リアリズムと呼びましょう。
 暴力を背景とした儀礼的闘争としての競技(暴力的リアリズム)というのは、お互いが暴力(たとえば銃など)を所持しており、まともにぶつかったら双方被害がとても大きいので、かわりにプライドをかけて麻雀で雌雄を決しようねという世界観です。「アカギ」の鷲巣との大勝負では、組の者がアカギ側に立ち会い、権力者である鷲巣にいいように勝負をなかったことにされないようにしています。彼らがいなければ確実に、アカギは勝ってもお金とれません。モブみたいなヤクザたちはじつは存在意義が大きいのです。
 福本漫画では暴力的リアリズムの法則が徹底しています。賭場で儲けすぎて殺されかけるアカギ、ゲームに勝ったのに逃走しなきゃいけないカイジ、ここから学べるのは『勝負に勝っても証人がいなければ何の意味もない』『勝ちは大きすぎると反故にされる』というきわめて現実的なルールです。
 大御所麻雀漫画である「天牌」でも、清一色をあがったら殺すとナイフでヤクザに脅される、勝負に勝って大金を持ち帰ろうとしたら車の前に立ちふさがってくるなどさまざまな方法で「勝負は勝負だけじゃない」ということが示されます。

世界征服

「咲」と「ハチワンダイバー」はあきらかに違います。でも「ハチワンダイバー」は「アカギ」の将棋版というわけでもない。それならこの将棋漫画に近いのは一体何なのだろうか? このキーワードとなるのは世界征服です。
 将棋で世界征服をするというイカれた発想、将棋がすべてを決めるという世界観、「ハチワンダイバー」は遊戯王のカードゲーム部分がそのまま将棋に置き換わったものと見ることができます。なぜカードゲームの勝敗に物理的実行力が伴うのか、なぜただのホビーやスポーツが世界征服に関わってくるのかみたいなノリの作品はわりと「ハチワンダイバー」に近いのかもしれません。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?