見出し画像

生きる。

2022年12月1日。

壮絶な出産だったと、
個人的には思っている。
きっと、もっと大変で、コウノドリで読むような誰を恨めばいいのかわからない状況の方々もたくさんいることを理解しつつ、僕たちに起こったこの出来事を記録しておきたい。

-

…数日前の深夜1時過ぎ、妻が破水した。
予定日より1ヶ月以上早く、さらに妻は僕からうつった新型コロナウイルスの療養期間*の最終日だった。

療養期間・待機期間については、発症日を0日として7日間経過し、かつ、症状軽快(※)から24時間経過している場合、8日目から療養の解除が可能です。ただし、10日間が経過するまでは、自身による検温、高齢者等重症化リスクのある方との接触や感染リスクの高い行動を控えていただく等、自主的な感染予防行動の徹底をお願いします。 
- 東京都福祉保健局

通っていたクリニックに新型コロナ対応の分娩室はなく、電話で別の病院を手配してくれる手はずは感染時に確認していた。しかし気づけばコロナはまた猛威を振るっていて、受け入れられる病院がなかなか見つからない。

あと22時間と少しだったのに。いつものクリニックで診れたのに。なんで私たちが。と、誰に言っても仕方ない言葉が出てしまうくらい、不安で押しつぶされそうになる中、陣痛が始まった。すでに5,6分間隔だった。

🔎(コロナ 出産)で調べると、帝王切開になるだとか、受け入れ病院も東京は絶望、相模原など都外ならある?などネガティブな情報がたくさんで、妻は不安で押しつぶされそうになっている。
僕が出来ることは本当に少なかった。背中をさすって、陣痛がおさまっている時間を見計らって入院用の準備をする。

「…もしもしすみません、まだ見つからないですよね…!?深夜に頑張ってもらっている中何度もごめんなさい」
「いくつかお願いをしていますが、まだ返事がなくて…」
「そうですよね、わかりました」
(振り返って)
「もう少しみたい、大丈夫よ、大丈夫。」

そんな風に何度か同じやり取りをしているうちにもう1時間半が経とうとしていた。妻が不安になるといけないと思い、ベランダに出て再度電話をした。

「…もしもしすみません、最悪、病院見つからなかったらどうしたらいいんでしょうか?」
「その場合は自分で救急車を呼んで、そこから救急隊員の方が同じように受け入れ病院を探してくれることになります…」
「なるほど、そしたらその間に産まれちゃいそうですよね、クリニックさん、なんとかお願いします…。」

電話を切った後、そのまましばらく妻に隠れて
🔎(出産 自宅 緊急)などを調べ始めた。
震えているのは寒さだけではなかったと思う。

1人の命を世の中に誕生させるにあたって、僕という個人は圧倒的に知識も力もないことに気づいて愕然とした。

そんな絶望の中、陣痛から2時間が経過したところでなんとか病院が見つかった(本当に腰が抜けそうだった)。それも東京でも大きな病院。一安心しつつ、救急車を呼び、妻の背中をさすりながら待つ。その数分も体感では圧倒的に長い。

来てくれた安心感も束の間、「旦那さんはそのまま自宅待機でお願いします。」というまさかの一言。僕の療養期間はあけているはずだった。それでもダメだということ。なんでなんだコロナ。。

絶望の中、妻を見送る。

そこからは連絡が途絶え、生まれる瞬間に立ち会えないとかそういうことよりも、あれだけ辛そうだった妻も、子どももどうか、どうか無事でいてくれと願っていた。何もできない僕は、静寂に耐えきれず、全く内容も試合結果も入ってこないワールドカップを眺めていた。

確かメッシがゴールを決めたあたりだったと思う。
妻からの電話があった。「産まれたの?どう?え?身体は大丈夫?」と矢継ぎ早に聞いて後悔した。まだ痛みで息も絶え絶えの妻が言う。

「なんとか分娩室には入れてもらったけど、病院の方の療養期間が10日間になるみたいで、今生まれるとコロナ出産になってしまって大変みたいで、あと3日間頑張りましょう、という方針ということだった。

頭では理解できた。だけど陣痛が始まったら24時間以内に産まれるのでは?療養期間は東京は7日間のはずでは?母体は大丈夫なの?てか痛みは?どうやって出産を抑えるの?薬使うの?え?え?
と色々聞きたいことは山ほどあったが、痛みでか細い声になった妻に聞く気にもなれず、
「理解はした、けど自分が辛くなったら後のことは考えず先生に言ってね、それでいいからね」
と言って電話を切る。

この先も、病院との連絡手段は妻との連絡しかないらしい。
なかなか辛い状況だ。

妙に落ち着いた僕はそこからお互いの両親に連絡したり、引っ越したばかりの家を片付けたりしているうちに日が登っていた。
ベビーベッドをもらいに行ったり、ベビ(名前を決めていなかったので我が家ではそう呼んでいたw)の部屋を作ったりしているうちに、日が暮れた。
一睡もできなかったなとやっと一息ついたころ、頭に激痛が走った。

そうだった、僕は病人だった、昨年9月から僕は「脳脊髄液漏出症」という病気と戦っていた。これ以上の状況があるだろうかと1人で笑ったことを覚えている(笑)。

そこからなんとか3日、僕も妻も耐えた。ひたすらに(後で聞いたら2日目くらいに本当に産ませてくれと懇願するつもりだったくらい辛かったと言っていた)。

そして、療養期間が終了する15時ちょうどに電話が来た。
「奥さんは本当に頑張りましたね、今の時間からお父さんも立ち会いができるので来ていただいても大丈夫です」

その電話が来た頃には、僕はいてもたってもいられずすでに病院の下のカフェにいたため、5分後には分娩室に着いた。
「早くないですか?笑」
と看護師さんたちに笑われながら到着すると、安心したのか妻は一筋涙を目尻から後頭部に向けて流した後、出産が始まった。

そこからは1時間と少しの出来事だった。

妻は強かった。

「がんばれ。」
「がんばれ、がんばれ。」
僕はあまり好まないこの言葉を自然と使っていた。

無責任で他人事感があり、頑張っている人を追い込み、理解するチャンスを失う言葉だと思っていた。
でも、4日間分娩室で療養期間が明けるのを待ち、陣痛を遅らせながら耐え続け、痛みで眠れず体力が残っていない身体で、堰を切ったように痛みに耐えて産もうとする姿に、
できることは同じくすごく限られていた。

僕は自然と「がんばれ」と言っていた。

背中をさすり、手を握り、一緒にいきんだ。
そんなことに意味はないとわかっていたけど、妻と呼吸を合わせることで、少しでも安心を感じてもらう事ができて、集中できればー。

目の前でこんなにも、血管を浮かび上がらせて、叫びにも似た声をあげながら頑張る人を見たこともなかったかもしれない。僕が泣いてどうすると思いながら、「がんばれ」と叫んでいた。

「オギャー、オギャー!」
と、どこかで聞いたことのある綺麗な鳴き声が聞こえた時には、妻は世界で最も尊敬できる人間となった。
かっこいい。かっこよかった。がんばった。

がんばったみんな。

安堵する間もなく、1ヶ月以上早く産まれた子どもはもちろん小さく、すぐに検査に回された。
身体全部を使って、一生懸命息をするその姿に、今日2度目となる「がんばれ」を小さく口にした。

彼女は今日、初めて世界で呼吸をし、その方法を体得するために、全身全霊で息をしている。
僕らの当たり前は、この子にとっては初めての挑戦なのだ。

これからNICU(新生児集中治療管理室)に入って頑張ることになるし、何か大変なことが待ち受けているかもしれないけど、
生きていてくれれば、なんだっていい。

ありがとう、そして『がんばれ』ベビよ。
はやく、名前を導き出すね、ごめんね(笑)


↑当時のなぐりがき日記を追記しました。名前は無事決まりました。

お日さまのように周囲の人を明るく照らし、
花を咲かせるように朗らかで大らかさで笑顔に溢れ、
どんな大変なことがあっても、日が当たる場所のように、心地よくて温かくて、生きていることに感謝できる人生だといいなあと思って名付けました。

子育て奮闘日記はまたの機会に。
とにかく、1ヶ月が経ちました。2023年は3人で頑張っていきます。

「半径数mの幸せと、社会全体の幸せをつくる」ために、どんなに小さなご支援でも勇気になります。いただいたサポートで、心穏やかにコーヒーをいただきながらアイデアを考えます。いつもありがとうございます。