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弱者男性のつくりかた

タイトルは僕も不愉快になるようなものなので謝りたいと思う。

タイトルのとおり弱者男性に焦点をあてて書こうと思う。弱者男性は僕の考えでは男のあり方が変わった世代の中での先頭組なのではないかと思う。
僕の家庭でも父親は現代にそぐわない考えをしており、喧嘩の絶えない日が続いていた。母親は僕や兄弟との仲もよく、教育方針も非常に近代的であったと実感している。しかし大学生になり社会の外観もとらえられるようになってきたこの頃では、父親の教えはあながち間違っていなかったのではないかと思うようになっていた。彼は直感的に弱者男性を生まないように教育をしていたのではないのだろうか。
恋愛というのは自分からアプローチをすることが大事だと、多くの恋愛にたけたアカウントがアドバイスと称してマウンティングをツイッターで発信するようになったが、このアドバイスを仮定として認めると、恋愛に向いているのは女性の感情を解さない、まるで地元のヤンキーのような人か
もしくは顔や運動などで幼少期から自信を養ってきた優れた人々ということになる。後者の属性はほかの場面でも基本的に優遇されているので、特に問題はないだろうが、前者はつい最近社会からパブリックエネミーとして認識されている人々に近しい属性である。このことよりわかるのは世代の異なる人によるアドバイスや教育には全く別の意図が働くことである。
母親にとってはきちんと女性的な感性を持って旦那と話し合いのできる人に育ってほしいという、結婚から相当な年数がたった人の願望が含まれているのだが、社会とりわけ十代後半から二十代前半にかけての求められている男性像とあまりマッチしていないことが分かる。旧来の男性的ならしさを捨てるように教育されて、特段顔の良くない男性というのはその何十パーセントが弱者男性になることは確実なのだ。母親たちにとってある程度理想の人間になるように教育されてきた男性の一部はそもそも結婚に行き着くことなく、その生涯を終えることになるのだろう。僕は人間らしくありたいので女性の感情をある程度理解しようとし続けたいが、意味があるのかどうかはわからない。こうなってくると自己満足のたぐいだと自分では思っている。
弱者男性はこのような教育のほかに環境的な要因(学校でのいじめの経験)や顔の美醜、運動や教育の差などの様々な要因から生まれるものなので、この教育が根本の単一の原因というわけではないがその一部だと感じている。
もう恋愛から逃れて別の人生の楽しみを模索するほうが早いのではないだろうか。

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