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ルックバックのオブセッション

子ども部屋。女の子の、一心不乱に机に向かっている背中がある。ランドセルは帰ってきてすぐ床に投げ捨てられ、手提げかばんは壁際にしなだれかかり、ゴミ箱には紙屑があふれている。床には国語辞典やジャンプや雑誌が転がっている。おせじにもきれいな部屋とは言えない。3段程度の背の低い本棚には漫画や雑誌がぎっしり入っている。窓からは家並みの奥にはっきりと山が見えて、彼女が田舎に住んでいることがわかる。

いつからそうしているのか。女の子は、ひたすら机に向かっている。机の上で、ペンたて、鉛筆けずり、セロテープは使われるのをじっと待っている。でも、ペンが紙の上を走る音だけが続いている。

ベッドがあり、その脇に目覚まし時計があり、洋服をしまう棚があり、ぬいぐるみもある。典型的な女の子の部屋のように見える。でも、女の子は、まだひたすら漫画を描いている。

これが映画「ルックバック」のポスタービジュアル。絵を描くのが大好きな子どものディティールが充満している。この描きこまれた細部こそが、この映画の描きれないほどの思いを表現している。

漫画を描くのが好きな子が成長して、絵の好きな友達ができて、いっしょに漫画を書いて同じ時間をたくさん過ごしていたけれど、それぞれ大人になって道が分かれていく。でも事件が起きて、友達が亡くなり、漫画を描くのが好きな子は、もう一度、漫画を描きはじめる。それだけのストーリー。

なんだけど、描きこまれたディティールが、何気ないストーリーにあざやかな情感を吹き込んでいる。細やかにこれでもかと描き込まれた情景、それはそのまま、その景色への思い入れの量であることを示している。

一例を挙げると、主人公が担任の先生に呼び出された時、教員室の窓にあるサボテンまでしっかり描かれているわけだが。普通の漫画なら、そこまで書き込む必要はない。でも、サボテンまで描くことで、その情景への、子ども時代の憧憬への、絵を描くことへの、思い入れの深さが表現されている。たぶん、サボテンであることの理由も、作者なりにあるのだろう。

ルックバックをみて、なんで感動するのかを考えてみたが、この話がフィクションではなく、漫画が好きな主人公がこの漫画を描いたようなフィクションに見えるからなんだろう。描いて、褒められて、描いて、挫折して、描いて、描いて、挫折して、また描いて、今日ここにいる。そんな、人生が透けてくるからなんだろうと思う。創作に携わる人なら共感できる、という誰かの感想も頷ける。

なんでもかんでも細かく描写すれば「いいアニメ」になるわけではなく、このアニメには細かく描写することが必然の演出になっているんだと思う。

とくにいいなと思うのが、描き込んでしまうことが計算ではなく、我慢できなくて、教員室のサボテンまで描いちゃってる感じがすることだ。そこまで描きたいんだろうな、我慢できないんだろうな、楽しいんだろうな、というのが、痛いほど伝わってくる。それは創作する人のエゴなんだけど、そのエゴがいとおしい。

仕事をする上で、仕事じゃないけれど我慢できなくて、オブセッションすれすれまで、こだわりすぎてしまうことがある。結果、そこまでやらなくていいよ、要らぬこだわり、と言われるわけなんだが、ここにはそんな不器用な人間が描かれているような気がする。勝手な憶測だけどね。

さて、今日の音楽は、予告動画にしちゃおうか。

これは、見たほうがいいよ。ひとりで。


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