人はきれいなものしか見たくない

自分が無自覚に人を傷つけ、迷惑をかけていても、それを抗議されると単に怒っている、単なる不快な信号として視界の外に排除してしまう。

耳障りのよくたのしい、きれいな話だけ聞いていたい。
自分のずるさについては忘れていたい。
もちろんそのほうが体にいい。自己中心的な奴は精神を病むこともないだろう。

キリスト教の信者だという人、あれだけ毎日のように他人を助けなさいと言われてそれを崇めていても、とりあえず私が出会った中で苦しんでいる人を避けずに助ける人は稀だ。

見ないようにする、面倒には近づかない、そして自分の生活を守る。
そのほうが損はない。実際キリストはあれだけ人を助けたのに群衆に憎まれながら殺されている。

先日のヨシタケ◯ンスケ展もそうだが、マイナスなことを発想転換するように促しているんだろうが、現在進行系で修羅場の中にいる人間からするとパンがないならケーキを食べれば、と言われているような、おちょくられているような気分になった。
きれいな空間で楽しそうにしている人達も、同じ人間なんだろうか?実は私と同じく家に帰れば激しい感情にとらわれる人もいて、今はただの休息、しばしの現実逃避しているだけなんだろうか?
初期の立体作品はまだ説教臭くなかったから、ある程度認められたことで元の苦しみを忘れてしまっただけなんだろうか?
実のところ昔身近なところに彼の作品が好きな人がいて、Tシャツまで着ていた。しかしこちらの「りゆう」には何の考慮も与えず、自分が困っている時に助けられたことも忘れ、こちらが困った時に侮辱して切り捨てた。
あれだけよさげな論を読んで、その場だけいい気分になって、何一つ骨身に染みていないということだ。
結局のところ余裕がある人の言葉遊びであり、戯言だ。(まあ誰もこんなどす黒い心の持ち主が見に来るとは想定していないだろうが)
そもそもデパートの空間自体が今の自分にとって全くの他人事だった。小学生のときは気にならなかったが、やたらきれいで、こんなん誰が買っていつ利益があるのか、現実なのか非現実なのか全くわからなかった。
唯一現実味があったのはエスカレーターを降りる時miumiuの店員が3人暇そうに立っている佇まいだった

きれいな人は既に持っているのに更にたくさんのプレゼントをもらい、もっと身近にいる飢えている人、或いは理不尽に怒っている人は素通りされる。
地位のある人の声は通るが地位のない者の声は負け惜しみとして無いものとされる。
同じ地位のない人まで地位のある人を支持する、あるいは盲目に従う。日々の生活が忙しいからだ。変に刃向かって状況が今よりもっと今より悪くなることを恐れているからだ
知っての通り抗議する、怒るのはかなりのエネルギーを要する。聞くのも嫌だろうがまず怒らせるような状況にしているのは誰なのか?
誰も怒りたくないのだ。

トランプは明らかにおかしい。でも自分は?
あの人はすごい。これはすごくいい話だ。
ではその考えを本当に「自分で」実行しようとしているか?
できなかった時、そんな自分を憎んでいるか?
崇めているだけではやったことにならない。
他人から搾取するため、都合の悪い声を締め出すために使っていないか?
「他人は変わらないから自分が変われ」とは、自分に言い聞かせるための言葉だ。
他人に強要していないか? 自分が変わりたくないがために。
それは言葉を強要することによって、元の意味とは全く逆のことをしていると気づいてくれないか?

人の助けになろうとする人間、自己反省が多い人間が損をして、
自分の非にも気づかず、人からかけられた迷惑にしか目がいかない、人からの恩は忘れ、人が困っていて、もう何の利益も得られないとわかれば足早にさようならの人間がのしあがり、
その価値がある人間にだけ礼儀正しく、物を献上して表向き謙虚で礼儀正しい人になっている。
地位のない人間は怒っても無視され、彼らは都合の悪い人たちが疲れて諦めるのを待っている。

忘れて、いいことだけに目を向けろ。
それはその方が「あなたの」都合が良いからですよね。
すぐに謝って、人が嫌がることをやめれば、怒らないで済むし、忘れられるんですよ。

完全に自分勝手になって、その時その時で自分の利益が最も大きくなるように意見を変え、立ち位置を変え、取り入る人間を変え、記憶を変え、恥も忘れれば、楽に豊かになれる。

こういうのはもうやめたい。
どうしたらここから抜けられますか。


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